2012年6月25日月曜日
熊襲とは熊毛から大隅に侵入した王名
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録12:20頁
《熊襲とは熊毛から大隅に侵入した王名》
「熊襲とは熊毛から大隅に侵入した王名」
蘇奴 so no 国は
大隅半島の旧名として非常によく知られた
「襲(そ)の国」と全く同音である。
熊襲とは、球磨(熊本県球磨郡)と、
それに隣接する古代大隅=襲の国とにまたがる
名乗りだというのもまた定説のようになっている。
しかし10世紀の『倭名類聚鈔』では
襲の国は大隅の国囎唹(そお)郡と名が変わっている。
これは先に見た
和銅6年の
「諸国の郡や郷の名には好い文字をつけよ」という官命に従って、
1字のものは2字にするため囎唹と当て字しただけのもので、
それ以前は1字の襲だったから、襲の山という地名は戦後も残っていた。
この囎唹郡と球磨郡は余りにも離れすぎていて、
熊襲の領地の名乗りとするのは無理すぎるから、
3世紀の熊襲は熊毛の熊と、
大隅半島の総称だった襲とのことで、
熊本県の球磨や熊本は後世に発展し移住した先で、
熊襲とは直接の関係はないことがわかる。
で熊襲はどうして大隅半島の総称だったのか。
襲には衣服としてのオスヒという日本訓みがあるから、
Osuhi と Osumi を比較してみると
オスヒをオスビと濁れば、
ビとミは「美」の2音で、
すぐ入れ替わるから襲は大隅に対する当て字だったことがわかる。
その襲=大隅は熊の次にくるから熊毛のほうが上位にある。
熊襲とは熊毛から大隅に侵入して
両方を支配下においた人物を表現した名乗りだったと、
認知しなければならない
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