2012年6月1日金曜日
富本銭が解決した天武政変以後の謎
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録11:33~41頁
《富本銭が解決した天武政変以後の謎》
「富本銭が解決した天武政変以後の謎」
「天武通貨造幣遺跡発見」
1999年1月19日、
奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部が発表した
奈良県明日香村飛鳥池遺跡から
「富本銭」とその破片など33点がみつかったというニュースを、
関西では各紙が大見出しで報道した。
この富本銭は約80年前、
長野県下伊那郡高森町の7世紀古墳から出土したものを初め、
奈良市、大和郡山市、柏原市、平城京跡、難波宮跡などから各1点見つかっていたが、
それは通貨ではなく、
「呪(まじな)い銭(厭勝銭)=えんしょうせん・ようしょうせん」だ、
といわれてきた。
「なぜ呪い銭(厭勝銭)だと思われたか」
それはそこに書かれた富本の2字が、
意味不明で日本の貨幣らしくなく、
なんとなく富を求める者の願望を表わしているようにみえることと、
左右に描かれた七曜または七星の模様が、
これまた迷信のシンボルのように感じられる。
中国では紀元前から銭形のものが一種のお守りとされていたし、
東南アジアなどでは現在もなお多種多様のものが生産され使用されている。
日本での富本銭の出土が死者を葬った古墳を主としており、
通貨としては出土量が余りにも少ないことなどから類推して、
たぶん富本銭は中国から輸入された偽銭の一種で、
お守りや呪い用に使われたものだろうという推測で終って、
それ以上に追及した論説を見ない。
「丁亥年と墨書した木簡が決め手」
だが今回発見された銅銭は、完成品ではなく製作途中の半製品であり、
また同時に製造行程の初めに銅を鋳型に流し込んで、
一度に複数の銭が造れるように工夫した「枝状の鋳棹」が見つかったことで、
付近に当時の鋳造工場があったことが確認できた。
これで鋳造地が明日香であると特定できたことに併せて、
それらを発見した同じ地層から丁亥年(687)と墨書した木簡が出土していることで、
その富本銭はその年から4年前に相当する『日本書紀』の天武天皇12年(683)の部分に、
天武天皇が「自今以後 必用 銅銭」と命じたと書かれている記事の、
「銅銭」そのものだということも確認できた。
富本銭は呪い銭などではなく、天武天皇が命じた「新貨幣制度」を実施した際の、
「最古の国産銅貨」だったことと、その後さらに付近で発見された多数の窯跡が、
その天武天皇時代の造幣局跡地であるとみてよいこととが、証拠群として完全に確認できた。
それはさらに残る天武天皇の謎と、天武死後の奈良時代の政争の謎も解いたから、
この富本銭の廃棄不良銭群と造幣局跡との発見は、
新聞各紙が書いた程度の小さな意義のものではない。
「万世一系は始皇帝を手本にした天武の発想」
そしてこれまで呪い銭の証拠とされてきた、富本の2字と左右に描かれた七曜または七星とが、
いまでは逆に、天武天皇が実現しようとした大きな未来構想と經倫の発想源が、
秦の始皇帝の歴史についての深い知識とその再現にあったことを明瞭に立証した。
さらに同時、天武天皇の『日本書紀』編纂の思惑と手法を初め、
これまで謎のまま放置されて未開のままだった日本史の最重要部分の真相を、
ついに明かにする巨大な物証になった。
日本の建国よりはるかに古い時代の詳細な歴史文化をもつ隣国・中国や中近東諸国に比べ、
同時代の日本が余りにも未開、野蛮な縄文・弥生イメージで固まった日本の史学が、
私たち日本人が欧米人に、いまだに未開人扱いされている原因であり、
また私たちの未来にとって最悪の、
国際的孤立と敵視につながる違和感の原因がどこにあるかという最も緊急を要する大きな問題に、
この富本銭の謎解明が明確に答えてくれたからである。
「天武はなぜ富本銭を制定したか?」
天武天皇がそれまでの大国倭国には存在しなかった「天皇制」を初めて敷き、
天皇を中心にした中央集権政府を作ったとき、彼はその革命政権の支配力を強化する手段として、
先進牲を国民に深く印象づけることを目的に、新しい貨幣制度を導入したのだが、
その発想は、B.C.E.3000年代に貝貨産業で殷帝国を支えた貨幣先進国の沖縄人の子孫らしく、
まず政権をバックアップし、
国民の死命を制する強権の一種=貨幣=銅貨の生産権と流通権を握ったのである。
このように天武天皇は、
それまでの支配者とは根本的に異なった政治経済思想と手腕の持ち主であり、
貨幣経済と貨幣生産に閑する先進知識の持ち主だったことがわかる。
「虎に翼をつけて放す」
彼が、中国文化にそれ程の深い知識をもっていたことは、
『日本書紀』の天武天皇前紀に書かれている
「天文・遁甲を能(よ)くし」はいずれも当時の料学と兵術の奥義であるが、
天智天皇は中臣鎌足と二人で南淵請安に「周孔の教え=孔子の周礼」を教わっただけで、
2天皇が本当に兄弟なら、鎌足でなく天武天皇が一緒に教わるべきものを教わらず、
また記録がないのに全く別の学問に精通していたし、
またもう一つの挿話にも「虎に翼をつけて放すのと同じだ」という比喩がでてくるが、
それが中国の古代文献『周書』や『韓非子』の中に盛られた寓話であることは、
天武天皇とその周囲の人々が、これまでの解説より、はるかに高度の知識人であったこと、
ことに中国事情に深く通じた高度の教養をもっていたことを、十二分に立証しているのである。
「天武天皇は本当に倭国皇子か」
天武天皇が考え実行に移した数々の事跡は、それまでの倭国朝廷の思想と倫理観とは、
根本的に異なっていて、全て徹底的に一致しない。
被が編集させた『日本書紀』には、彼は前朝の皇極・斉明天皇の皇子であると書いているが、
こう考察してみると、彼が倭国の皇子であったとすれば、
それまで倭国を支えてきた根本的なものと、宗教観、経済観、世界観がこんなにも異なる人物が、
突如として奈良に現われたことは、永遠に解くことのできない謎になって残る。
「古代史欠落の原因は天武『焚書(ふんしょ)』」
これは彼が『帝紀』およぴ『本辞』の為りを削れと命じて、
それ以前の日本列島ぬあらゆる鹿史文献を一掃し、
『日本書紀』の原形になった『帝辞』および『上古諸事』を十年三月に川島皇子らに命じて
記定させたという記事を事実としなければ、
余りにも遺跡や文化財と『記・紀』の記事とが食い違い過ぎ、落差が余りにもひどい。
日本の古代史欠落の原因は天武「焚書」以外にない。
『記・紀』は共に史実そのものではなく、
徹底して分析し整理して、史実を復元しなければ、
やがて真相が世界の人々に知られたとき日本の史家は酷評の嵐に晒される。
「富本銭はどこへ消えたか?」
しかしそれなら富本銭はなぜ、現在まで通貨だったことがわからないほど、
無くなってしまったのか…?。
どんなに生産量が少なかったにしても、統一日本帝国の、いやしくも一国の通貨である。
当時の人口からみて、少なくとも都の飛鳥、平城京あたりだけでも、
100万や200万個は流通していたはずである。
それがわずかに古墳から数個、今回もその製造地からわずかに半製品が数個見つかったにすぎない。
日本の発掘考古学はそんなに貧弱なものではない。
戦後半世紀の業績は、世界に比べるものもないほどの経費を費やして、
厖大な量の文化財を発掘している。
それなのに富本銭に限ってまるで出土しない。
それはいったい、どこへ消えたのか…?。
「よき後継者ではなかった持統天皇」
これを推理する手掛かりは唯ひとつしかない、天武天皇死後の政治情勢がそれである。
彼の死後、女帝持統天皇が立った。
彼女は天武天皇の皇后ではあったが、
政敵、天智天皇の娘であり、また政敵として天武に滅ぼされた弘文天皇の姉であった。
実はさらに複雑な滅亡倭国政権とつながりがあって、
夫妻とは名のみ、決して天武天皇のよき後継者ではなかった。
それが以後さらにエスカレートした証拠には、
『延喜式』の天皇祭祀システムが天智天皇だけを最優先扱いにし、
『記・紀』が皇祖と尊崇する神武天皇でさえ無視に等しい扱いをさせていること。
また政府編纂の当時最高の貴族リスト『新撰姓氏録』が、
天智天皇系に最重点を置いて貴族とし、
他の天皇、例えば仁徳天皇系など抹殺して全く入れていないことなど、
当時の政権による余りにもひどい差別が明瞭な証拠記録として残っている。
「女王制の倭国勢力巻き返し政権」
持統天皇は天武が始めた始皇帝式の男王制度をたちまち崩して女王制に戻した。
以後、倭国系最後の女王・称徳天皇までその倭国復活政潅が続いた。
この時代以後の主導権は実力者集団・藤原氏一族がにぎっていった。
これも私(加治木義博)著でご存知のように百済倭国(フジワラ)という姓が物語るとおり、
旧倭国王家の血縁者集団だった。
こうした倭国勢力巻き返し政権が、暴力クーデターの連続で「乱れに乱れた」祖国に、
その強奪政治家どもの痕跡を残しておくはずがない。
ことにその通貨に大書された富本は憎むべき「国名」であり、
邪教のシンボルである七星を並べた銅貨が流通していたのでは、
国民に対して「示し」がつかない。
国名をしばしば変えたあげく「ウワ=大和』に戻し、
富本銭も回収して処分してしまったのである。
「そこまで憎まれたのは、なぜか?」
そこまで憎まれた理由はその富本という名にもある。
それでなければ、通貨を造り変えるという面倒なことを実行に移す必要はない。
その命名の出典を、中国唐代に編集された一種の百科辞典『芸文類聚』にある
「富民之本 在 於 食貨」によるという説も、天武天皇の深い中国文化吸収を立証するが、
それだけでなく、彼の名乗りそのものが
「天=大天=ウチナ、淳=塩を含む水=海、中原=天下、瀛=仙境臝州=沖縄、眞人=道教の眞仙」
という意味である。
この沖縄と道教の深い知識によって名乗ったその名乗りを考えると、
その富本という当て字の発音が沖縄発音に限定され、その沖縄発音が簡単に答を出し、
それが重ねて天武天皇が沖縄系の人であった証拠を強化する。
「富本とは何か」
フホンと発音すると沖縄語にない母音o(オー)が入っているから間違いで、
本の字は「モト」の沖縄語化した「ムツ」が本来の発音でなければならない。
すると、フの標準語音はホで「日」。
モトは「本」で、日本と同じものへの当て字だから、
富本とは、日本という天智天皇のつけた当て字を嫌って、沖縄語化しただけのものである。
「応神天皇は鹿児島県内の小国・日本の王」
これはさらに過去に説明されたことのない重要な名乗りの謎も同時に解く。
それは垂仁天皇の皇子と応神天皇の共通名「ホムツ」で、それは「日本」の大隅発音だったのだ。
これが応神天皇の名替えの正体で、
新旧の「日本王」が交替して名乗りの所有者が異動しただけである。
応神は小国・日本の王で、応神紀の地名は全て鹿児島県とその周辺の地名である。
「さらに立証する「和同開珍」」
富本が憎まれた事実を立証する、さらに有力な動かし難いものがある。
それは復活倭国政権が、それに換えて発行した通貨「和同開珍」である。
これは富本=日本を和=倭に変え、開=ヒラキ=新羅に変えている。
はっきりフムツを敵視していることがわかる。
しかも和=倭と開=新羅と珍=チヌ=茅淳は「同じだ」と書いてある。
文章は旧天智系の復活を謳歌しているのである。
「銭を摧(くだ)いて鋳造する役所の投置」
当然旧貨幣は通用しないということにして回収し、鋳直して和銅開珍にしてしまった。
これにも明瞭な証拠が残っている。
それは元明女帝の和銅元年(708)に新設した役所と役人の名称である。
それを「摧鋳銭司」という。
文字通り「銭を摧(搗(つ)き砕いて)鋳造する役所と役人」だと、
詳細にその仕事の内容まで書いてあるのである。
だが交換による通貨回収には、交換する通貨を準備しておくことが必要になる。
秩父から初めて銅を献上したから銅貨名を改名し、
元号も和銅に替えたというのは口実に過ぎず、
事実はその交換通貨準備のために銅の産地を探し求めて武蔵の国で第一号が手に入ったという、
前後の真相も明瞭な証拠でわかる。
また資材や工場や職人集めなど莫大な予算が必要だし、
それでもひそかに通用し、秘蔵しているものも多い。
それを完全に搾り取る方法が必要だったことにも実に大きな証拠が残っている。
「奈良に現存する実に大きな証拠」
そこで知恵をしぼって、実に大掛かりで、かつ巧妙な心理的謀略政策が実行に移された。
それは当時の人々がもっていた迷信の利用である。
悪魔の作った呪われた銭をもっているものは天罰を受ける。
その呪いを払う唯一の法は仏に寄進することだと宣伝し、それをさらに効果的に演出するために、
回収した富本銭を有効に利用して、
しかも異教徒天武天皇に対する憎悪や復讐や葛藤が渦巻く本心をひた隠しに隠したまま、
その憎むべきシンボル富本銭を鋳潰して完全にこの世から消し去ってしまう方法を考え出した。
それが東大寺の大仏建立だったのである。
「宝石にも匹敵した当時の銅」
異教道教の独裁者・天武始皇帝が国民支配に利用した厖大な通貨が、
この世から消滅したのと同時に、同じ素材・銅を大量に消費しなければ造れない、
巨大な仏教徒のシンボルが突如として首都に出現した。
この事実は銅が当時は宝石にも匹敵する巨大な価値をもっていたこと、
しかも弱体だった奈良政権の実像を認識できれば、
それがどれほど常識はずれな大事業だったか計測することができる。
これまで日本人が抱いてきたイメージとは余りにも掛け離れたこの事実をみると、
そんなイメージしか与えられなかった過去の史学者や作家の思索は、
余りにも幼稚だったというほかない。
「在来の貨幣史の欠陥」
ついでに、在来の貨幣史の間違いも指摘しておこう。
在来は大学では日本の貨幣制度について、和銅元年(708)5月に初めて銀銭を使い、
8月に初めて銅銭を用いたと教えてきている。
だがこの富本銭の問題解決によって、
「銅銭使用は天武天皇時代に始まった」と訂正しなければならないのはいうまでもないが、
それだけではない。
銀貨もまた、天武天皇時代から使用されていたのである。
それは、さきに挙げた天武12年(683)の部分に、
天武天皇が「自今以後 必用 銅銭」と命じたという記事は、
正確には「自今以後 必用 銅銭 莫用 銀銭」と書いてある。
「今より以後、必ず銅銭を用いて、銀銭を用いるな」という、
銀貨使用禁止が主体で、銀貨の代わりに銅貨を使えという命令なのである。
「富本銭以前に流通していた銀貨」
この命令は富本銭以前に銀貨が流通していたからこそ、その流通を止め、
その不便を補うために改めて「銅貨を供給するから使え」という内容のものである。
少なくとも天武12年(683)4月15日のこの命令が出るまでは、
日本で銀貨が使用されていたことは疑いがない。
ではその銀貨はどうなったか?。
これにも答が書いてある。
その3日後の4月18日に「用銀 莫止」「銀を使うのまで、やめなくてもいい」というのである。
これは銀貨を使うなと命令したが3日後に使ってもいいと朝令暮改したのではない。
15日の命令は「銀貨」で18日のは「銀」そのものなのだ。
銀は装飾品材料であり、天武天皇の政策は新しい官僚制度の整備と
「八色(やくさ)の姓(かばね)」による新貴族制度の創設に力点をおいたから
衣冠を制定して装飾品が大量に必要になった。
銀貨は鋳潰されて銀花(かんざし)などに化けたのである。
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