2012年6月24日日曜日

不呼国はいまの福岡市の北にあった



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:17頁

 《不呼国はいまの福岡市の北にあった
 「不呼国はいまの福岡市の北にあった

 では当時の不呼国=豊後はどこにあったか?。

 豊のつく

 豊玉姫。

 宝満池。

 火火。

 穂穂。

 百済。

 百襲姫とたどっていくと、

 種子島が豊の国の発生地だったことがわかる。

 その種子島から広がった姓と地名に「日高」がある。

 日高はホコー・ヒコーへの当て字とみれば

 日向と同じものである。

 しかし日高という地名は、

 北海道にまで分布しているのに、

 沖縄を含めた九州全域には1つもない。

 しかし沖縄の比嘉は

 ヒコがとヒガへ沖縄語化したものである。

 豊前・豊後は、

 もとは1つの豊の国か2つに分裂したものなのだから、

 手掛かりがなくはない。

 豊前にあたる不弥国を、

 魏書倭人章が、

 伊都国から「東行 百里 至 不弥国」と、

 基点と方角と距離を明記している。

 国は広い面積をもっているから、

 大国の伊都国を現在の佐賀県と仮定すると、

 百里は5.5kmしかなく、

 不弥国と大分県は大きく離れている。

 その理由はホコは沖縄語ではフクなので

 沖縄語人が占拠するとフク国(マ)になる。

 その通りの「福間」が福岡市の北にあり、

 その東には岡や遠賀のつく地名があるから、

 合わせて福岡になったことは明かで、

 このあたりが卑弥呼政権時代の旁国・不呼だったのである。

 飯塚市の穂波はホナミ=豊奴前だ。

 伊都に隣りあった不弥と不呼は、

 後世の豊前・豊後=現在の大分県ではない。

 それは奴国のように、次第に移動したのである。

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
 『言語復原史学会:画像』
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

0 件のコメント:

コメントを投稿