2012年6月12日火曜日
不弥・不呼は卑弥呼時代の方前・方後→豊前・豊後
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録12:15頁
《不弥・不呼は卑弥呼時代の方前・方後→豊前・豊後》
「不弥・不呼は卑弥呼時代の方前・方後→豊前・豊後」
このミがメになる鹿児島語がわかると、
国名の前後が別の謎を解いてくれる。
肥前 ヒメ=比売・姫・媛。
肥後 ヒコ=比古・彦
〈男女を区別する名詞の性語尾〉、と同じになる。
これはよく注意してみると、
女性のほうが「前」、
男性のほうが「後」で、
女性上位である。
ヒメ・ヒコは女王制の倭時代の遺物だったのだ。
卑弥呼政権時代には、すでに前後のついた国は実在していた。
不弥国と不呼国とは、
当時すでに、
この前・後に分裂していた国だったのである。
ではそれはどことどこを指していたか。
肥・筑・豊の3つを pwo と比較すると、
「ホー」という発音をもつ「豊」だけが該当する。
不弥は豊前、
不呼は豊後で、
これを卑弥呼時代にはまだ
プォーミヤ、
プォーゴと発音していたが、
政権の交替とともに住民と言語が変わって、
プォーはホーやホになり、
ゴもコやコーになった。
のちの日向という国名も、
やはり同じ不呼から分かれたことになる。
Pwo go → ホーコー → ホ=日 コー=向という式が成り立っ。
これは卑弥呼時代よりも後の変化だから、
豊後を名乗る小国が拡大して、
宮崎県からさらに鹿児島県までを、
南下、合併した勢力があった証拠である。
景行天皇の事跡によく一致するが、
それは彪大な量になるので、
後日、講を改めて詳細に立証しよう。
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