2012年6月30日土曜日

南九州の古墳文化



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:33~36頁

 《南九州の古墳文化
 「南九州の古墳文化

 『出典』上村俊雄(ラ・サール高校教諭・考古学)


 「独特の地下式墳墓

 現在の鹿児島県、宮崎県南部、熊本県南部は

 『記・紀』説話に伝える熊襲・隼人の居住した地域である。

 これらの地域に見られる古墳文化は、

 畿内型の高塚古墳と、

 南九州独特の地下式土壙(どこう)、

 地下式板石積石室(いたいしづみせきしつ)などに大別される。

 すなわち南九州の古墳時代は、

 隼人の原始共同体社会と畿内型古墳を築いた権力社会の二重構造であった。
 
 「隼人の墳墓

 地下式土壙(地下式横穴)は地表に何らの標識も伴わない。

 地表から垂直に竪坑(たてこう)を掘り

 途中から横に向かって掘り広げて墓室をつくる

 宮崎県南部から鹿児島県大隈地方、

 宮崎県に隣接する吉松町、栗野町、菱刈町、大口市などに分布し、

 畿内型古墳とも、

 地下式板石積石室とも共存して発見されることもあるが、

 地下式土壙のみが数十基まとまって発見されるのが普通である。

 この型で、

 最も古いのは鹿屋市祓川の弥生時代後期の成川式土器を副葬するもので、

 四世紀ごろのものである。

 祓川にある別の地下式土壙には短甲(たんこう)を出土したものがあり、

 五世紀後半ごろに大和朝廷の勢力が及んでいることがうかがえる。

 地下式板石積石室は、地表約1.5㍍のところに数十㌢の大きさの板石を

 百数十枚積んで 石室を築く。

 大隈地方には全く見られず

 吉松町、栗野町、菱刈町、大口市、薩摩町、川内市などの

 川内川流域に集中しており、

 出水市、阿久根市、高尾野町などの海岸部にも分布している。

 熊本県では南部の人吉市、葦北町、本渡市などに散在している。

 この型の墳墓で最も古いものは最近、

 調査された高尾野町堂前古墳で、十七基が確認されている。

 うち一基だけが円墳で、他は全て方形である。

 方形の板石積石室のうち二基に土器を供えた(供献)のがあった。

 一つは成川式土器、

 他の一つは免田(めんだ)式土器が石室の直上に供えられており、

 二基とも内部は土壙である。

 これまで板石積石室の内部が土壙であった例は全く知られていなかった。

 しかも供えられた土器が弥生時代後期のものであるという事実によって、

 地下式板石積石室も、

 先に述べた鹿屋市祓川の地下式土壙も、

 その起源を弥生時代に求めることができよう。

 堂前古墳の調査によって、

 これまでの古墳時代の概念は一新された。

 地下式板石積石室は、

 弥生時代に見られる覆石墓、配石墓、箱式石棺、土壙などの特徴が

 伝統的に残されており、

 弥生時代の墓制が引き継がれたものである。

 地下式土壙と地下式板石積石室の文化をもった

 原始共同体社会は、

 弥生文化の伝統を受け継ぎながら

 三世紀ごろから南九州独特の古墳文化を育てていったのであろう。


 「権力者の墳墓

 これに対して、

 畿内型高塚古墳の分布は

 宮崎県南部から鹿児島県大隈地方の志布志湾沿岸に集中している。

 薩摩地方では阿久根市脇元、出水郡長島に見られるだけである。

 最も古い高塚古墳は曽於郡志布志町夏井ダグリ崎にある飯盛山古墳で、

 五世紀中ごろのものである。

 おそらく宮崎県西都原方面から日南海岸を南下して志布志町に至り、

 五世紀後半に大脇町、東串良町、高山町方面へと伝播していったのであろう。

 これらの地域に高塚古墳を築造したのは、

 後世の文献に現れてくる曾君(そのきみ)の祖であり、

 権力社会の人々であった。

 一方、阿久根市脇元、出水市長島などにみられる高塚式古墳は、
 
 熊本県有明海沿岸の古墳文化の影響が明りょうに認められ、

 最も古いのは五世紀後半ごろのものである。

 おそらく四世紀ごろ

 有明海・八代海に大きな勢力をもっていた火の君(肥君)一族の後裔であろう。

 火の君一族は、

 大和朝廷の隼人支配の一翼をになって北薩地方へ進出し、

 しだいに隼人を支配下に治めていったのである。


 「反骨精神に富む隼人

 隼人の墳墓である地下式板石積石室と地下式土壙から

 発見される副葬品は実に貧弱なものである。

 被葬者の富の貧しさは、

 彼らが支配していた地域の生産力の低さを意味する。

 この小さな勢力が彼らの居住している地域によって、

 日向隼人、

 大隅隼人、

 阿多隼人、

 甑隼人、

 薩摩隼人

 などと呼ばれたのだろう。

 隼人は古くは熊襲と呼ばれていた時代(四世紀半ばごろ)から

 大和朝廷にはげしく抵抗していた。

 宝亀二年(771)には、

 隼人は帯剣を禁止され、

 奈良時代後期には薩摩国と大隈国で兵器修造を禁止されている。

 隼人は反骨精神に富む民族だったのである。

 川内川中流域には君(きみ)直(あたえ)などの姓(かばね)を

 大和朝廷から与えられた豪族が見当たらない。

 この地域の地下式板石積石室から発見される副葬品は

 刀、剣、鏃(やじり)などの攻撃用武器にほとんど限られている。

 他の流域では短甲、冑(かぶと)、鏡など

 大和朝廷に服属した代償として与えられているものが、

 この地域では全く見られない。

 何回かの繰りかえされた隼人征伐のなかで、

 最後まで抵抗したのは薩摩町、大口市を中心とする

 川内川中流域の薩摩隼人であった。

 延喜年間(901~922)以後、隼人は文献から姿を消す。

 これ以後、隼人の反抗は全く見られなくなったのであろう。


 「鹿児島県の古墳編年表

 年代    古墳名 古墳の形状    遺跡所在地    年代推定の基準となるもの

 3世紀   ○堂前 地下式板石積土壙 出水郡高尾野町  免田式(他の一基に成川式)

 4世紀   ○祓川 地下式土壙    鹿屋市祓川    成川式(他の一基に短甲、冑)

 5世紀中頃   飯盛山 前方後円墳   曽於郡志布志町  竪穴式石室、壷形埴輪ガラス製勾玉

 5世紀中頃   小浜崎 積石塚、円墳  出水郡長島町   割石小石積竪穴式石室

 5世紀後半   大塚  前方後円墳   肝属郡東串良町  竪穴式石室、箱式石棺、短甲

 5世紀後半   横瀬  前方後円墳   曽於郡大崎町   竪穴式石室、円筒埴輪、形象埴輪(楯)

 5世紀後半   天子ヶ丘前方後円墳   曽於郡大崎町   日光鏡、獣帯鏡

 5世紀後半   北方  円墳      姶良郡栗野町   冑

 5世紀後半 ○天神原 地下式土壙    肝属郡高山町     冑

 5世紀後半 ○溝下 地下式板石積石室  出水市知識道場園 短甲、冑、矛

 5世紀後半 ○横岡 地下式板石積石室 川内市横岡    冑、須恵器

 5世紀後半 ○別府原 地下式板石積石室 薩摩郡薩摩町   刀、剣、鏃

 6世紀前半 ○上原  地下式土壙      肝属郡高山町   軽石石棺、蛇行鉄剣

 6世紀前半 ○天子ノ前 地下式土壙   曽於郡大崎町横瀬 軽石石棺、内行花文鏡

 6世紀中頃  脇本   高塚式古墳    阿久根市脇本     横穴石室、組合せ石棺

 6世紀中頃  鬼塚  高塚式古墳   出水郡長島町   横穴式石室、須恵器

 6世紀中頃  白金崎 積石塚     出水郡長島町   横穴式石室、須恵器

 6世紀後半 ○小木原 地下式板石積石室大口市小木原   円頭太刀、馬具、金環 

 6世紀後半  温之浦 高塚式古墳   出水郡長島町   横穴式石室、金環、鏃

 6世紀後半  指江  積石塚     出水郡長島町   栗石積竪穴石室

 6世紀後半 ○亀甲  地下式土壙   国分市向花    金銅製三螺鈿柄頭太刀、須恵器

 7世紀    ○鷲塚  地下式土壙   曽於郡大崎町永吉 刀子    

 8世紀    ○横間   地下式土壙   肝属郡高山町新富 蕨手刀、須恵器、斧

  (注)○印はハヤトの墳墓

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鬼奴国の明清音にピッタリ合う栗野



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:32頁

 《鬼奴国の明清音(ミンシンおん)にピッタリ合う栗野
 「鬼奴国の明清音(ミンシンおん)にピッタリ合う栗野

 鬼は[球玖(きゅうぐ)]だったから、

 鬼奴国は「球玖 no 国」ということになるが、

 現在はもちろん『倭名類聚鈔』にも、これに似た地名はない。

 だが隋唐音の時代に喜入と当て字が変わったほど変化したのだから、

 現在はさらに近世の明清音に変わっている可能性がある。

 鬼奴の明清音は kuei nu クェイ ヌで、

 沖縄語系の大隅語では e がなくなってクイヌ。

 この後者なら鬼国のあった球磨郡に隣接している

 鹿児島県姶良郡の北部に、

 現在もクイヌと発音している栗野町がある。

 『倭名類聚鈔』の姶羅、大隅両郡に岐刀(キトウ)郷があるが、

 これには該当する土地がない。

 だが支配者をみると天武天皇に忌寸(いむき)の位を受けた

 大隅の直(あたえ)と、

  岐の直(あたえ)の2つの直(あたえ)がある。

 岐の直は天平勝宝元年に外従五位を受けている。

 これをみると岐刀郷は明かに岐乃郷の誤写である。

 これがわかると鬼奴(キノ)=岐乃(キノ)が一致する。

 ただしこれは鬼を日本式発音でキと発音してのことで、

 クイヌは鬼奴の字に対する中国の近世音なのだから、

 岐乃(キノ)は表面的な用字で、

 実際には鬼奴のままだったことになる。

 栃木の鬼怒川が今も鬼奴の名残をとどめているのも傍証になる。

 明の言葉が使われた時代のこの地域の大事件は、

 嶋津義弘の朝鮮出兵だが、

 彼が栗野城を造っている。

 その栗野の当て字がいつから使われたかが確定するまでは、

 断言は差し控えるが、

 いまのところこの栗野が鬼奴国の第一候補である。

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2012年6月29日金曜日

為吾は大隅系の旁国=肥後菊池郡の子養郷



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:31頁

 《為吾は大隅系の旁国=肥後菊池郡の子養郷
 「為吾は大隅系の旁国=肥後菊池郡の子養郷

 為吾 gwia ngo 

 グイアンゴ、グヤンゴだから、

 呼邑のゴイヤのゴがグになった沖縄発音に、

 助詞の「ン」と「郷」を短く発音した

 「ゴ」のついた地名=「五位野(グイヤ)ン郷】という

 大隈発音とみるのか最も合理的である。

 しかし倭人が1つのうにを、たとえ発音が違っても2国と数えて、

 帯方郡使こ教えるということはありえない。

 これは当時すでに呼邑人が移住していた移住先の地名でなければならない。

 その候補地は、

 さきに見た日向国の児湯耶か、

 肥後国・飽田(あきた)郡の蚕(こ)養郷と

 菊池郡の子養郷が、

 大隅語圏と近接した地理関係からみて最も可能性が高いが、

 語尾がゴだから郡のついた児湯郡には合わず、

 蚕養と子養の2郷のほうに合う。

 その内でも「子養」のほうが、

 沖縄発音の「グヤ」にぴったりの当て字になっているし、

 為吾はイゴという発音のほうが常識的だから、

 それなら肥後のギリシャ~インド訛りと共通すること、

 さらにさきにご覧にいれた

 『倭名類聚鈔』による呼邑の子孫の分布地名のうち、

 他のものはどれも原音を残しているのに、

 この「子養」だけは「コカイ」とわざわざ発音を大きく変えさせているので、

 8世紀以降の中央政権が特にこの子養を敵視したとみていい。

 これは為吾が中国の正史である

 『魏書』に名を残した古代九州政権の要地であったからだとみると、

 旁国の為吾国は

 この肥後・菊池郡の子養以上の候補地はない。

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鬼国は球磨郡の球玖、喜入に移住



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:30頁

 《鬼国は球磨郡の球玖、喜入に移住
 「鬼国は球磨郡の球玖、喜入に移住

 鬼 kiweg キウェグ 

 この語頭のキウは、今ならキュウで、+ェグの土地があればいい。

 『倭名類聚鈔』の肥後国球磨郡・球玖がそれである。

 球はキュウ、玖は語尾ではグになるからキュウグ。

 どこからみても鬼への当て字である。

 鬼国(マ)はキュウグマ。

 熊にキュウを冠して、先住地と区別した国名だ。

 球磨はこれを略した球に国称のマをつけて熊を表現している。

 例の和銅6年の「郡郷名には好字をつけよ」という官命で、

 1字の鬼を2字にするために kiweg に球玖を当てたのは、

 和銅政府の漢字発音はまだ漢魏音だったという証拠だ。

 この鬼は隋唐音では kjwie キュウィエになる。

 『倭名類聚鈔』薩摩国・給黎郡がある。

 給黎は普通音はキュウレーだが、

 鹿児島語は拗音がなくラ行は母音だけになるからキュウエ、

 鬼の隋唐音にピッタリ完全に一致する。

 この給黎に対する後世の当て字は「喜入(キイエ)」である。

 喜はキだから、キウよりさらに拗音がなくなっている。

 「入(いれ)」は ire → ie でイエになるから、

 エに対する当て字とみると不合理だが、

 これを隋唐音 kjwie と見比べてみると

 語尾は ie でイエ、「入(イエ)」のほうが

 はるかによく合うことがわかる。

 喜入は隋唐音が入ってきた時代以後に、

 もと旁国の鬼国=球磨郡の球玖から分かれて移住した植民地につけた、

 次世代の地名だったのである。

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2012年6月28日木曜日

華奴蘇奴は肝属の古名で神園・上園は子孫



『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:29頁

華奴蘇奴は肝属の古名で神園・上園は子孫
華奴蘇奴は肝属の古名で神園・上園は子孫

華奴蘇奴 ga no so no はガノソノと発音すると候補地は見つからない。

カノソノと清音で発音すると全国でただ1か所、

内藤湖南のいう静岡県磐田郡にある鹿苑(カノソノ)神社が、

ピッタリの最短距離にある。

卑弥呼政権がインドからきたギリシャ~インド系の仏教徒たちで

構成されていたことを考えると、

この神社の名は繹迦の最大の布教の場

「鹿野苑(ろくやおん)」との関係が考えられるし、

また鹿児島県の地名が非常に鹿の字を重視して使うことにも注目を要する。

カノソノは鹿児島語化するとカンゾンになる。

鹿児島郡吉田町本名に神園があり、

垂水市牛根境に上園があるが、

どちらも姓にもなっており、カンソン・カンゾンと発音されている。

「郡や郷の名は好字をつけよ」という

史実隠蔽工作の改名命令があった事実を考えると、

肝属郡という名も元はカノソノだった可能性がある。

当時の『続日本紀』では

肝衝(つき)と肝杯(つき)という復元不可能な文字に変えられていて、

同じ正史でありながら2種類の当て字を使っているが、

10世紀の『倭名類聚鈔』になると復元できる文字の「肝属」に戻っている。

肝の漢音はカン。

属の漢音はゾクだが鹿児島語ではゾッ・ソッになる。

語尾の「ッ」は助詞の「ノ」に代わる津であるから、

カンゾッとカンゾンは同じものなのである。

華奴蘇奴は肝属の古名で、

神園・上園は肝属出身者の移住地だということになる。

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五位野から児湯郡に移動発展した呼邑国



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:28頁

 《五位野から児湯郡に移動発展した呼邑国
 「五位野から児湯郡に移動発展した呼邑国

 呼邑 go iapはゴイヤッにいちばん近い。

 鹿児島市のJR西鹿児島駅から南へ走る

 指宿線で4つ目にある駅は五位野(ごいの)

 この語尾の「野」を音読して「ヤ」と読むとゴイヤ。

 この地名が呼邑の漢魏音に全国でも最もよく合うから、

 3世紀の旁国「呼邑国」はここ以外にない。

 しかしここも今は駅名があるだけで、

 他の多くの例と同じくほとんど消滅しかかっている。

 呼邑を現代日本の漢音で読むと「コユ-」だが、

 これにぴったりなのが宮崎県の児湯(こゆ)郡である。

 この郡には特別に有名な温泉地もないから、

 郡名の湯の文字には何の意味もないので、

 単なる当て字だとすぐわかる。

 しかし何に当て字したのか分からないから、

 呼邑が語源だと考えるほかない。

 卑弥呼時代には五位野にあった呼邑国が、

 その後児湯郡の辺りに移動して、

 郡の大きさにまで発展したことが、はっきりわかる。

 それはさらに10世紀には、

 北陸から関東にまで郷名として分布したようにみえるので、

 現在の発音は異なっているものも、

 それらしい可能性のあるものは全部挙げておこう。

 蚕(コ)養=肥後国・飽田郡。

 子養=肥後国・菊池郡。

 小家=筑後国・生葉郡。

 木夜=筑前国・遠賀郡。

 小宅=播磨国・揖保郡。

 児屋=摂津国・武庫郡。

 小屋=能登国・鳳至(ふげし)郡。

 禾生=上総国・山辺郡。

 小埇=下総国・結城郡。

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2012年6月27日水曜日

「初国知らす天皇」は蘇奴国の天皇



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:27頁

 《「初国知らす天皇」は蘇奴国の天皇
 「「初国知らす天皇」は蘇奴国の天皇

 この蘇奴国が襲の国になり、

 囎唹(ソオ)になったのはすでにみたが、

 『日本書紀』神武天皇己末(きび)年春二月のところには

 層富県(ソフのアガタ)という当て字が使われている。

 このソオ・ソフという発音の変化がなぜ起きたかもお話ししておこう。

 『三国史記』高句麗本紀では、

 位宮の曾孫・西川王は薬盧(屋久国)、

 その子の烽上王は相夫という名乗りをもっている。

 この相夫は「ソフ」とよめると同時に、

 夫をオと読めば、「ソオ」であるから、

 層富・囎唹の両方に読める。

 この王は後世の蘇奴国王だったことと、

 ソオ・ソフという発音の変化がなぜ起きたかを、同時に教えてくれる。

 大学講義録11の『先代旧事本紀』国造本紀の、

 旁国との対比リストには挙げなかったが、

 大隅国造の名乗りに、このソオが出てくる。

 「大隅国造 纏(まき)向日代朝御世 治平隼人 同租 

  初小 仁徳帝代者 伏布 為

  曰佐(おさ) 賜 国造」と書いてある。

 この「初小」が、拗音のない鹿児島語では

 「初=ショ=ソ」、「小=オ」で、

 ソオに対すもる当て字だとわかる。

 「初国」は「ソ国」で蘇奴国や襲の国への当て字の一つなのだ。

 『古事記』崇神天皇記の最後にある

 「謂(いう)所 知 初国 之 御真木天皇 也」は、

 最初の天皇という意味ではなくて、

 「襲の国=層富」を治めた天皇という意味なのである。

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蘇奴国と隼人と狗奴国は犬人の一族



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:26頁

 《蘇奴国と隼人と狗奴国は犬人の一族
 「蘇奴国と隼人と狗奴国は犬人の一族

 でも、

 蘇奴国がギリシャ・インド文化の国だったことを、

 まだ信じられない人のために、

 さらにつけ加えておくと、

 さきにお話しした叟那(ソナ)国の「 sona 」は

 パーリ語で「犬」のことであるが、

 奈良市北端の奈良坂町にある元明天皇陵には、

 裸体でサンダルを履いた頭部が犬の画像右があって、

 古来「隼人石」と呼ばれているし、

 平城京では儀式に際して供奉(ぐぶ)した

 隼人が「犬吠え」をしたと記録されている。

 これはまた魏書倭人章の「狗奴国」が

 「犬の国」を意味した用字になっていることにも合う。

 狗奴国は卑弥呼政権には属していなかったが、

 血統的には蘇奴国の人々と同族だったから

 「海幸・山幸」では兄弟にたとえられているのである。

 では大隅へはどこからやってきたのであろうか?。

 それもよくわかっている。

 壹與の別名である赫居世が即位した当時の国名は「徐那伐」で、

 これはヨナバルと読めるので沖縄県の与那原に合うが、

 徐はソの発音もあり、伐もキルと読むから、

 ソナキへの当て字にもなり、

 伐はカルとも読むからソナカへの当て字にもなる。

 ソナキは蘇波城とも同音だし、

 長崎県の東西に分かれた彼杵(そのぎ)郡とも、

 もとは同じ国名である。

 沖縄にはソナカという国があり、

 壹與は位宮(=琉球王という名乗り)とともに

 沖縄から大隅に遠征したのだから、

 与那原と蘇奴国とは同時存在だったが、

 ソナカ国のあった沖縄のほうが蘇奴国より前だったのである。

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2012年6月26日火曜日

世界有数の文化圏を指す「膂宍之空(りょにくのソラ)国」



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:25頁

 《世界有数の文化圏を指す「膂宍之空(りょにくのソラ)国」
 「世界有数の文化圏を指す「膂宍之空(りょにくのソラ)国」

 『日本書紀』神代下、天孫降臨の部分に、

 ニニギの命が天降だった国を「膂宍之空国」と書いてある。

 津田左右吉はこれを

  「ソジシのムナクニ」と読んで、

  「背の肉のように痩せた地」と解釈して、

  「そんな未開地がどうして皇室の発祥地でありえたであろうか」といい、

  「神武東征が日向を出発点にしているのはおかしなことである」と、

 『記・紀』の記事を否定してしまい、

 それが今も、

 「応神天皇以前は史実ではない」として

 義務教育から抹殺してしまった現行文部行政の拠り所になっている。

 果たしてそれで正しいのだろうか?。

 「膂宍之空国」と書かれた地域が霧島連峰の高千穂付近であることは、

 その記事に詳しく地名が挙げられているので誰にでもわかる。

 「膂」の発音は ソ ではなく リョ で背骨のこと、力という意味もある。

 「宍(にく)」は肉の字の古い形で当時はニクと発音。

 「空」はソラだから」蘇に国称のラで蘇国のこと。

 当時の蘇奴国は未開どころか、

 津田氏が史実を知らずにコジっけた浅薄な空論とは正反対の、

 ギリシャとインド文化が重合した、

 世界有数の宗教文化圏の中枢だった。

 「膂宍之空国」は津田説とは逆に

 「強力で豊かな国」を形容した

 「逞しい筋骨筋肉のように強力なソの国」

 という意味以外は考えられない。

 かりに空国はカラクニだったとしても「姶良=カラ」国であって、

 ソの国と同じ地域、同じ意味で少しも変わらない。

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蘇奴国も仏教がもたらした国



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:24頁

 《蘇奴国も仏教がもたらした国
 「蘇奴国も仏教がもたらした国

 このソナの名乗りは、

 『日本書紀』崇神天皇65年秋7月に

 任那(みまな)からやってきた使者の名としても現われる。

 蘇那曷叱智(ソナカシチ)である。

 この人物については大量の謎解きが必要だし、

 それはすでに大半が私の著書に掲載されているので、

 ここでは関連する名乗りだけを挙げておく。

 ソナカ長老  アショカ王仏教宣布団の東方布教最高指揮者とその後継者

 ソナカ夫妻  足仲彦(仲哀天皇)『日本書紀』 息長帯姫(神功皇后)『古事記』

 ソナカヒメ  石長比売(ニニギの命の妻・木花之佐久夜毘売の姉『古事記』)

 このうちのソナカ長老は私の研究結果であるから、

 まさかインドとは関係はなかろうという人がいると思う。

 しかし、

 蘇奴という国名はインドのものと同じである。

 その国はもともと

 紀元前にアレクサンドロス大王が残したバクトリア地方の国で、

 漢字では「叟那(ソナ)国」と書かれるギリシャ人国家だったが、

 インドに侵入してB.C.E.2世紀には王国を建投した。

 その結果、それまで存在しなかった仏像=ガンダーラ仏が生まれたが、

 その像はインド人が現在も履かないサンダルを履いている。

 日本人も草履や下駄を履く。

 後にお話しする巴利国とともに、

 この蘇奴国も仏教がもたらした国名とみるほうが、

 より合理的である。

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2012年6月25日月曜日

2世紀より前からあった蘇奴国



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:23頁

 《2世紀より前からあった蘇奴国
 「2世紀より前からあった蘇奴国

 では旁国時代にはそれはどの辺りにあったか。

 この『倭名類聚鈔』の宮崎県を指す

 日向国の諸縣(もろがた)郡には、

 現在は鹿児島県曽於郡に入っている財部(たからべ)がある。

 一方、

 囎唹郡には志摩があるが諸縣(もろがた)郡にはない。

 さきにみた斯馬国の嶋津の庄は

 いまの宮崎県・都の城市で、

 曽於郡と隣りあっているから、

 この志摩は嶋津の庄である。

 これをみると国境は不動のものではない。

 いくらでも位置を変えるので、

 こんなに入れ代わったのである。

 ここでは斯馬国が蘇奴国といかに隣接していたかを、

 よく実感しておいて戴きたい。

 この蘇奴国は、いっごろから存在していたかも記録に残っている。

 前にも繰り返し高句麗は鹿児島県が本拠だったことをお話ししてきたが、

 『三国史記』の高句麗本紀・太祖大王の「宮」

 (陳寿の『魏書・東夷・高句麗章』は位宮の祖父だと書く)

 20年春2月の記事に

 「伐 藻那 虜 其王(ソナを討ち、その王を捕虜にした)」と書いてある。

 宮の名乗りは「宮之城の王」だから、

 このソナ国は蘇奴国以外にはない。

 助詞のノとナは変わるがソは国名の主語だから

 発音が同じなら同一の国である。

 近い時代に同じ地域に同じ名のソの国が、

 幾つもあることは絶対にないからである。

 蘇奴国は宮の時代にはすでに存在していたのだ。

 宮は後漢の本初元年(146)に老齢で退位しているから、

 卑弥呼即位よりはるか以前だ。

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地名分布の理由と時期に注意



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:22頁

 《地名分布の理由と時期に注意
 「地名分布の理由と時期に注意

 それは先にお話しした薩末(さつま)比売の乱のあと、

 朝廷が和銅7年(713)に大隅の国を置き、

 翌 和銅7年に

 「隼人は昏荒(こんこう)野心(心が暗く荒く野蛮)、未だ憲法を習わず。

  よって豊前の民二百戸を移して勧導(指導)lさせる」

 と勅命して移民を送りこんだ記録があるからだ。

 『倭名類聚鈔』当時の大隅国には「桑原郡」があったが、

 そこに豊国郷と大分郷があり、

 その隣りの囎唹郡に方後郷があるのは、

 この8世紀の移民によるものだから、

 もちろん3世紀にはこの3つの地名は、この付近にはなかった。

 発音に気をとられて早呑み込みすると、

 大変な過ちを犯してしまうことが、よくおわかり戴けたと思う。

 だが平城京政府がそこまで対策に悩んだのには理由があった。

 そのあたりは広大な襲の国の後で、かつての首府である。

 しかも平城京で支配権をふるっている連中は熊襲の出身者で、

 もとをただせば同じ一族であり同輩である。

 それが辺境に取り残されたばかりに、

 威張りかえった奴等に見くだされ、

 高い税を取り立てられるのは我慢ができない。

 その結果は6年後の養老4年に蜂起して、

 大隅国守の陽侯史麻呂(ヤコのフビトマロ)が

 殺害された大反乱に発展してしまった。

 こうしたことを視野に入れると、

 蘇奴は旁国中でも大国で、

 あまり遠絶していず、

 重要な首都・隼人にほとんど隣接していたことがわかると思う。

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蘇奴国の版図(はんと)は時代によって変わった



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:21頁

 《蘇奴国の版図(はんと)は時代によって変わった
 「蘇奴国の版図(はんと)は時代によって変わった

 この侵入者は、

 神話の山幸彦=彦火火国見の尊と狗奴国男王と位宮とだが、

 結局は1人の位宮に集約され、

 さらに神武東征もまた、

 そのバリエーションだったことが、詳細な分析でわかっている。

 熊襲梟師(たける)とは位宮すなわち垂仁天皇以外のだれでもない。
 
 以上で、卑弥呼時代の蘇奴国は大隅を指していたことがわかった。

 必ずしも現在の曽於郡には限らない。

 位宮の別名が熊襲で、

 その熊襲は隼人町で殺されたから、

 当時の襲の範囲は少なくとも隼人町まで含んでいたことになる。

 だがそれは位宮時代であって、卑弥呼時代の蘇奴国ではない。

 国の版図(はんと)は時代によっては時々刻々変わるし、

 位宮壹與革命では一瞬にして変わったことが理解できなくては

 旁国の研究はできない。

 流動していたものを静止させて、

 それをさらに現代の地名に当てはめようとするなら、

 それは発想が間違っているのである。

 その好例は、

 現代の地名どころか10世紀の『倭名類聚鈔』にある地名さえ、

 うかつには使えないという地名が実在していることである。

 その地名は囎唹郡の中にある「方後」だ。

 これは不呼のホーゴに完全に一致するし、

 またこの方後は、間違いなく豊後のことだから、

 これが不呼国だといえば、なるほどと納得する人は多いはずだ。

 しかしその地名が囎唹郡の中にある理由がわかっていると、

 これを旁国の不呼だと主張することは絶対にできない。

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熊襲とは熊毛から大隅に侵入した王名



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:20頁

 《熊襲とは熊毛から大隅に侵入した王名
 「熊襲とは熊毛から大隅に侵入した王名

 蘇奴 so no 国は

 大隅半島の旧名として非常によく知られた

 「襲(そ)の国」と全く同音である。

 熊襲とは、球磨(熊本県球磨郡)と、

 それに隣接する古代大隅=襲の国とにまたがる

 名乗りだというのもまた定説のようになっている。

 しかし10世紀の『倭名類聚鈔』では

 襲の国は大隅の国囎唹(そお)郡と名が変わっている。

 これは先に見た

 和銅6年の

 「諸国の郡や郷の名には好い文字をつけよ」という官命に従って、

 1字のものは2字にするため囎唹と当て字しただけのもので、

 それ以前は1字の襲だったから、襲の山という地名は戦後も残っていた。

 この囎唹郡と球磨郡は余りにも離れすぎていて、

 熊襲の領地の名乗りとするのは無理すぎるから、

 3世紀の熊襲は熊毛の熊と、

 大隅半島の総称だった襲とのことで、

 熊本県の球磨や熊本は後世に発展し移住した先で、

 熊襲とは直接の関係はないことがわかる。

 で熊襲はどうして大隅半島の総称だったのか。

 襲には衣服としてのオスヒという日本訓みがあるから、

 Osuhi と Osumi を比較してみると

 オスヒをオスビと濁れば、

 ビとミは「美」の2音で、

 すぐ入れ替わるから襲は大隅に対する当て字だったことがわかる。

 その襲=大隅は熊の次にくるから熊毛のほうが上位にある。

 熊襲とは熊毛から大隅に侵入して

 両方を支配下においた人物を表現した名乗りだったと、
 
 認知しなければならない


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対蘇は津和野へ行き、帖佐になってしまった



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:19頁

 《対蘇は津和野へ行き、帖佐になってしまった
 「対蘇は津和野へ行き、帖佐になってしまった

 対蘇 twad so は「ツワド・ツワゾ」に最も近い。

 ドはノとすぐ交替するから、

 島根県の西端にある津和野がよく合うが、

 そこはJRの山口線があるから有名な観光地になったが、

 鉄道がなければ辺境で、

 九州には近くても、

 とても旁国に数えられるような地理的条件は、もっていない。

 島根県は出雲・石見(いわみ)で構成されているから、

 鹿児島県の出水(いずみ)人の植民地であり、

 日向神話と密接につながった出雲神話の保有国でもあるから、

 この地名も南九州からの移住者である可能性が高いが、

 すでに南九州には、対蘇に合う地名はなくなっている。

 だが、沖縄語人がそれを消したとすると、

 語尾のドやソの母音は o が u か a に変わっているはずである。

 そこで語頭がツで語尾がスかサの鹿児島型短縮音の地名を探すと、

 ピッタリの「帖佐」がある。

 これは今の鹿児島県姶良郡姶良町の古名で、

 今はJRの駅名と姓に残るだけになっているが、

 「ツサ」と発音するから、短縮音 tw sa と完全に一致している。

 帖佐と津和野の2つの地名は、

 こうして今でも元は1つだったことがわかるが、

 これには有力な傍証がある。

 それは石見地方の言葉の発音と抑揚が、

 鹿児島語のそれと実によく似ていて、

 アクセントだけ聞いていると間違えることがある。

 これは同じ言語と地名が分裂移動したことが事実であって、

 以上の推理が正しいことの動かない証拠なのである。

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