2014年12月4日木曜日

千代田区・港区(1)


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 千代田区・港区(1)

 「和名類聚抄」武蔵国荏原郡(日本歴史地名大系)

  美田郷:「和名抄」所載の郷。

   同書東急本には「御田」とあり、高山寺本は訓を「三多」と訓じる。

   武蔵国国分寺瓦に「三田」とヘラ書したものがある。

   現港区三田および現目黒区三田を遺称地とし、目黒区三田、

   現品川区大崎、港区三田にかけての一帯を郷域としたと

   推察される。

   御田・美田の由来について朝廷の直轄領地である屯倉説や

   伊勢神宮の神田説、公領を意味する公田説などが説かれている。

  木田郷:「和名抄」所載の郷。

   同書高山寺本に「支太」、東急本に「木多」、名博本に「キタ」と訓じる。

   武蔵国国分寺瓦に「木田」とヘラ書されたものがある。

   当郷の有力者が国分寺(現国分寺市)へ

   献納する瓦を焼かせて」いたのであろう。

   「風土記稿」は

   現世田谷区域の上北沢・下北沢の北が

   遺称地名に係わるとする説を紹介し、おぼつか無しとしている。

   「大日本地名辞書」は「和名抄」において

   美田郷の次に記載されていることを根拠に、美田の北郷と解釈し、

   現目黒区、現港区高輪、白金にかけての辺りに推測しているが、

   依拠ありとはいえない。

  桜田郷:「和名抄」所載の郷。 

   同書高山寺本と「左久良多」、東急本に「左久良太」、

   名博本に「サクラタ」と訓じる。

   戦国期にみえる桜田が遺称地名で、現千代田区の南部に当たる。

   江戸城の外郭門である桜田門もこの地名に係わる名称である。

 霞坂:かすみさか(港区)港区西麻布1・3丁目の境をなす坂。

  高速3号の下を西南にくだる。

  元の麻布霞町の中央部を通る坂であった。

 霞の関:かすみのせき(新宿区)【近世】江戸期の俗称地名。

  豊島郡野方領千駄谷村北部一帯の地名。

  古くは霞村といい、奥州街道の関屋があったのに因む。

  旭の関ともいったが、その由来は不詳。現行の霞岳町一帯。

  現在の国立競技場の地に霞の松、また遊女の松と称した名木があった。

 霞岳町:かすみがおかまち(新宿区)

  【近代】明治24年~現在の町名。明治44年まで四谷を冠称。

  もとは千駄谷村霞ヶ丘、川向、甲賀町。

 霞ヶ関:かすみがせき(千代田区)

  【近代】明治5年~昭和42年の町名。

  地名の由来は江戸期以前荏原郡の東境にあった

  奥州街道の関名によるといい、日本武尊が蝦夷に備えて設けたもので

  雲霞を隔てる眺望の地であったことからつけられたよいう

  伝説がある(武蔵野地名考)。

  藤原為世の

  「おなじくは空に霞の関もがな雲路の雁しばしとどめむ」(続千載集)の

  歌をはじめ、宗祇は「霞が関は西より流れたり」(名所方角抄)と記し、
 
  「秋の寝覚」には「霞ヶ関、さくら、呼ぶ鳥、雁」とあるなど

  歌枕の地として多くの和歌に詠まれた。

 霞山:かすみやま(千代田区)〔江戸名所図絵〕霞山、霞山稲荷神社

 麹町:こうじまち(新宿区、千代田区)

  【近世~近代】江戸期~現在の町名。

  小路町、糀町とも書いた。

  江戸期は西は半蔵門外の内濠から外濠を挟んで

  四谷・赤坂見附に及ぶ地域で、町域の中央を甲州街道(新宿通り)が

  東西に貫通。

  地名の由来は麹製造業者が多かったためとも(江戸方角註解・府志料)。

  「東西髪の如」き小路町の意とも(江戸繁昌記・麹街略誌稿)。

  武蔵国府(府中市)と江戸湊を結ぶ街道上の町で、

  国府路町の転化とも(府志料)いう。
 
《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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