2016年1月12日火曜日

日本語の成立過程

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 ≪日本語の成立過程≫

   ウィキペディア百科事典によれば

  シュメル語は

  古代メソポタミアで使用された言語である。

  少なくとも紀元前4千年紀にはその使用が確認されており、

  筆記された言語としては最古のものである。

  時代が進むにつれアッカド語に押され、

  紀元前2000年頃から200年あまりの間に

   口語としては死語となった。

  しかし、

  古代メソポタミア社会において

  宗教語、学者語として長く受け継がれ、

  ヨーロッパにおけるラテン語やインドにおける

  サンスクリット語に類似した地位を与えられた。

  シュメル語と同系統と考えられる言語は

  これまでのところ発見されていない。

  シュメル語圏にはセム語を話す人々が混住していたが、

  セム語との系統関係は認められない。

  ただし、公式には認められていないが日本語との類似、

  漢字のみで記載された

  古事記がシュメル語で読めるという書籍などもある。

  近年エラム語とシュメル語の系統関係の存在を

  主張する者もいるが、

  両言語の関係を示す証拠はほとんど無く

   学会では受け入れられていない。

  一般には系統不明とされる。

  アッカド語は

  古代メソポタミアで、

   主にアッシリア人やバビロニア人に話されていた言語。

  当時は国際共通語でもあった。

  アフロ・アジア語族セム語派に分類される。

  現在知られているなかで最も古いセム語である。

  楔形文字で表記された。

  またシュメル語からの借用語が

   非常に多いのも特徴の一つである。

  ※出典:加治木義博

  ○シュメルは英語訛り、実在したのはスメル

   シューメルと、これまで呼んできたのは、

     実は正確な発音ではない。

   それはアッカド語で、

     正しくは次のように「Sumeru」と書き、

   発音は原語でも、ギリシャ、ラテン発音でも

    「スメル」なのだが、

   研究の主力が英国人だったために、

     我が国では英語訛りが使われて、

   <シュメール>という発音が名詞として定着、

   それを使わないと何のことか判らないという

   異常な状態が今も続いているため、

   筆者も仕方なく、

     これまで<シュメール>としてお話ししてきたのである。

   古代には<シュメール>などという名詞は

     存在しなかったのであって、

   <スメル>、<スメラギ>(スメル吾君(あぎ))の方が

     実在していたことを、

   しっかり確認しておいて戴きたい。

   またそれは国名だとも思われているが、

   チグリス・ユーフラテス両河下流域を中心とした

     漠然とした地域名で、

   住民自身はそれを楔形文字と書く。

   2大河下流域は湖沼が散在する広大な葦原地帯である。

   葦の主(王)の土地だというのだ。

   この語順にも注意がいる。


  ○令亀・灼骨ともにシュメル(スメル)文化の分布

   この「令亀の法」とは、

     中国では殷商帝国で行われ始めた習慣で、

   亀の甲羅に複数の答を彫って、 

     火で焼くと乾操してヒビ割れが走る。

   それが指した答が神の教えだとする法である。

   複雑な疑問を単純化するこのシステムが、

   殷と倭人の双方にあるのは、

   肩甲骨を使う人々は獣が主食の草原の畜産者が

   日常的に獣を焼くことから自然に発生した占いで、

   スメル人ではあるが傍系。

   だが亀の甲の方は水利に長けた

   本系ウバイドの慣習が貴ばれたものである。

   だから令亀の法は倭人の方が古く、

   霞ケ浦で栄えた稲敷人が農業とともに、

   こちらから殷に持って行ったことが判る。

   これらは倭人は三千年以上前には、

   少なくとも関東の稲敷にまで住んでいた証拠だから、

   奈良に女王の統治する国があっても不思議ではない。

   しかし九州から関東までなら、

   漢との通交国数が百カ国しかないのは余りにも少な過ぎる。

   この国のサイズは、帯方郡から伊都までの国々 が、

   一大や末盧などの千戸単位の村落国家まで

   一国と数えているのをみれば判る通り、

   それは後世の播磨や大和などの、

     六十余州サイズの国ではない。

   また逆に見れば六十余州のうちの関東までなら

   今度は百カ国は多すぎるから、

   それが市町村サイズの国々 だったことは動かない。

   この百から三十に減った国の数もまた、

   卑弥呼と壹與の二代の女王国が、

   ともに九州内、とくに南九州にあった証拠である。

   日本語と全く同じであることを見落としてはいけない。

   『記・紀』が、我が国の別名として挙げている

   『豊葦原瑞穂(水穂)之国』とは、

   この<KiEnGi>の直訳だと理解する必要がある。

   このままでは「スメル」は

     単なる地域名に終ってしまうから、

   放置せずに、もっと追及して見よう。


  ○我が国まで来たのはシュメル人ではなかったか

   我が国の遠祖が、

     シュメルからやって来たように見える証拠を挙げてきた。

   しかしそれは可能性があるというだけで、

     決定的なものではなかった。

   我が国のシュメル起源説>は少なくないが、

   まだ動かない結論を出した論説は1つもない。

   だから当然、反論もあったが、

   それもまた中途半端で終わっている。

   それはなぜか?それは論拠が弱く、

     学問として不完全だったからだ。

   そこでこれからその不完全さを指摘して、

   日本列島へきた私たちの祖先は絶対に

   「在来のシュメル人」

     ではなかった事実を立証してご覧に入れよう。

   その決定的な証拠は、シュメル文化を代表する

   円筒印章が我が国に伝わっていないという事実である。

   円筒印章は、シュメル文化を代表する、

     ずば抜けた先進文化である。

   それは同じ文字や符号や絵を、

   素早く、簡単に、繰り返し、再生して、表示し、

   記録として長期間、不変の姿で保存できる。

   という『印刷術』の発明なのである。

   その技法も円筒形の原板を回転して

     押捺するというシステムは、

   印刷術でも高度の発明である輪転機に匹敵する。

   押捺するだけの普通の印章とは比較にならぬ、

   現代の発明にも比肩する高度の知能産物だ。

   しかもその用途は、

     契約や記録にサインに代わるものとして、

   一度使用し始めると

     政治経済、文化の総てに無くてはならぬ、

   社会生活に不可欠の必需品なのである。


  ○来たのは円筒印章文化以前にシュメルを出た人たち

   それを使用してその便利さを知った人々は、

   それなしには仕事ができなくなる。

   たとえどこへ移住しても、

     取引き、契約、記録はついてまわる。

   生活必需品になった印章は放せないから、

     移住先でもそれを使い続けて、

   最後は副葬品の中に入っていることになる。

   それなのに我が国では、その遺物が全く見当たらない。

   それも<円筒印章>が大きくて、

     輸送が不可能な器具なら別だが、

   簡単に携帯できるし、

   仮に無くしたとしても

   特殊な材料や製作技術がなければ作れないものではない。

   材料は石ころであり、

     その整形や彫刻も、素人細工でも充分作れる。

   それが我が国に皆無だというこの事実は、

   円筒印章文化をもったシュメル人は、

   我が国には来ていないという動かぬ証拠なのである。

   では何故?これまで見てきたようなシュメル人との

   共通遺物が見つかるのだろうか?

   それは円筒印章が発明される前にシュメルを出た人々が、

   我が国までやってきた場合にだけありうることである。

   私たちの先祖がシュメルから来たことは、

   数々の証拠で間違いない事実だと納得できているのだから、

   シュメルの歴史知識はどうしても必要だし、

   シュメルとは何か?

     という常識ももっていなければならない。

   必要部分を手短かに見てみよう。

   またそれがもっと明確な遺物・証拠を

   残していないかも再検討してみよう。


  ○シュメル発の日本語群と日の出・日没への関心

   当時のシュメル語と日本語の共通語には

     次のようなものが確認できる。

    宮司=サング、参宮、南九州ではグッサンという。

    商売人=シヤプガル、人=グル(アイヌ語)。

    大工=ナガル、

       刀は片刃(カタナ)、刃=ナ、ナガル=刃人・刃物師だ。

    自国民=ウッキン、内君、ウチの大切な人たち。

    その長(おさ)が大君・ウッキン(南九州)。

    王=エン、役(エン)の小角(オヅヌ)は修験者たちの王(エン)。
    修験という名もシュメルに通じるが、

    その額(ひたい)に着ける兜巾(ときん)も、

    今もイスラエルの司祭が全く同じものを着けるし、

    また耳の前に我が国古代の髪形・ミヅラとよく似た

       特殊な髪を垂れる。

    これは彼等がバビロン捕囚時代に身につけた

    シュメル文化の遺物で当時のレリーフにも見られる風習。

    イスラエル人だけのものではない。

    しかしこのウルカギナ王のとき、

    ウンマの軍勢が侵入してテラシュ神殿などを襲い、

    宝石貴金属を奪い放火して焼き払った。

    この神殿名も「照す」で、

       南九州には寺師(てらす)姓もある。

    この時以後ウンマは侵略政策をとり続け、

       50の都市国家を征服して、

    日の出るエラムから日の入る

       シリヤ(尻国(ヤ)・後(しり)国)まで

    シュメル全土に君臨した。

    エラムは沖縄発音・イラブ=伊良部、

       南九州発音エラブ=永良部で、

    この地名のルーツを物語るし、

       尻の反対語の頭(かしら)によって、

    頭に「選ぶ」という日本語が

    このシュメル語から生まれたことも理解できる。


  ○国号『日本』のルーツはシュメル語の太陽と神殿名

   シュメルでは太陽神をシャマシュと呼ぶ。

   南九州語では焼酎をソツと発音するように、

   シャ、シュ、ショはサ、ス、ソと発音する。

   薩摩はサツマではなくサッマと発音する。

   ご存知の通り薩摩は開聞(ヒラキキ)・枚聞(ヒラキキ)を

   首都にしたヒラ=日国(ヒラ)=日本=新羅の中心であって、

   天智天皇はシャマ主(シュ)だったが、発音はサッマ主で。

   薩摩はそれに当てた当て字だ。

   太(シ)陽(ヤ)国(マ)で、

   だがそれをマレー語の1=サツだとした人たちが、

   壱国と当て字したのが邪馬壹国なのだった。

   日をニッと発音するのも南九州語で、 

   日本は神殿名ニップルが

     ニップヌになったものへの当て字である。

   シュメル語の国名はアッカド、アッシュルなどと

   サッマと同形の撥(は)ね方をする。

   レイライン以下多くの共通文化が、

   『日本』という国号は

     シュメルにルーツがあったことを立証している。

   シュメルをスメルと発音する地域も南九州以外にはない。

   五彩圏当時の<倭>=<沖縄>から中国東北区までを調査しても、

   焼酎を「ソツ」と発音する特異な言語をもった土地もない。

   天皇をスメラ王(ギ)と発音する限り、

   神武天皇が奈良の橿原で即位した時を

   紀元とする邪馬台国大和説などは根底から崩れて消滅する。

   日本国は7世紀後半まで鹿児島県にあったことを

   『唐書』が詳細に記録しているし、

   その『日本という国号』は、

   今から4000年前のシャマシュ大神と

   ヤマトバルとニップル神殿から始まっているからである。


   ○陸稲=シュメルから、水稲=クメールから

    米はヨネ・ヨナとも呼ばれた。

    こちらは与那国島から沖縄県各地の与那のつく地域を経て、

    本土の米子・米原ヨネハラなどに分布している。

    これを整理すると、

    シュメルから陸稲、

    クメールから水稲、

    ギリシャ人が高級種のヤポニカ

    を持ってきたのである。

    植物学に暗い学者はヤポニカをジャポニカと発音する。

    生物の学名はラテン語化してつけるのが、

    命名規約で決められた原則である。


   ○シベリヤ命名の時期とシュメル人の居住証明

    これは

    「スメル人=住める人(現代語なら、住んでいる人)=国民」

    を意味するから、住むという日本語が生まれたのは、

    シュメル人政権時代のことだったとわかる。

    また「スベル=滑る」だから、

    いま試験に落ちることを「滑る」ということを考えると、

    スメル人は統治者の地位を失ったことから

    「滑る」という日本語が生まれたこともわかる。

    その不様(ぶざま)な様子から、

    ぬかるみなどで滑って尻餅をっくことも

    また「滑る」という言葉で表現することになり、

    氷で滑るのが日常の北国で、

    凍結で滑るという意味に多用されたから、

    そちらのほうが一般化したとみると、

    滑るを語源にして、

    滑る土地という意味でシベリヤという地名が生まれたのは、

    その政権喪失以後のことになる。

    それはギリシャ人の強力な勢力が

    政権移譲を迫ったからだということも、

    スサノオの政権追放や大国主の国譲りとして

    記録されているから現実にあったことで、

    アレクサンドロス東征後、あまり時間の経たない時期、

    弥生時代の初めだったことは動かない。

    ではシュメル系の人は完全に排除されたのか?

    『大宝令』の官制をみると、

    春宮(東宮)に「主馬署(しゅめしょ)」が設けられて

    馬や馬具を管理したことが紀録され、

    アラブ馬の産地を故郷にもつ人たちが、

    その特技活かして勤務した様子が眼にみえる。

    そして今も宮内庁には、

    馬事と車両を管理する「主馬寮(しゅめりょう)」がある。


  ○皇室はシュメル起源だと語る多くの遺物群

   主馬はシュメルに対する巧妙な当て字なのである。

   それも現在のシュメリョウのほうが、

   より語源の発音に近いのも面白い。

   スメラギ、スメラミコト、スべル、スメルだけでなく。

   住、済、壷、炭、隅、角、寿美、鷲見、須磨など、

   皇室の伝統のシュメル起源を語っている。

   「スム」は「清む」だから、スサノオが出雲で

   結婚した媛の父「須賀(清)の八耳」一族もまた

   「清める人=スメル人」だったのである。

   それはさらに政権委譲が大国主国譲りが教える通り、

   死闘によるものではなく、

   平和裏に融合することで収まって、

   婚姻や養子縁組による合体で、

   血の繋がりを絶たなかった事実を裏書きしている。

   それは当然で、

   国家の起源は古い方がいいから

   『記・紀』も建国を神代だと主張したのである。

   それを遥か後世の神武天皇時代に引きずり下ろして

   建国記念日を制定した連中は国民の敵なのだ。

   だがこのお話はまだ終わりではない。

   「スム、スミ」は「済む、済み」だから

   倭王・済もこの伝統名を名乗ったのである。

   彼は和泉を倭済(いずみ)と名乗ったが、

     そこは住江に隣接している。

   マルセイユの例のように<L音>は<Y音>に変わるから

   沖縄ではスメルはスミユーになる。

   奄美の住用村はその当て字で、それが

   <住吉になり、スミエ・住江・墨江と変った>もの。

   彼は後世の肩書なら

    「スメルの守(かみ)」と名乗ったのである。

   それは一体?何故だったか?


   ○シュメル出自想像説や在来史学と、史実との酷い隔差

    インダス5大河の古名の日葉酢姫を考えてみよう。

    それは偶然のいたずらか、他人のソラ似なのだろうか?

    彼女の父は旦波の比古多多須・美智能宇斯王で、

       美智能宇斯とは

    今見た御中主を

       ミチュウヌシ・ミチノウシと読んだものだった。

    当て字と読み方が違うだけで、

    それはシンドゥの最高神・ビシュヌー

      「毘紐縫(ビチュウヌウ)」を

    意味する名乗りだったのである。

    日葉酢姫が、

    自分の支配する河の名を

       名乗ったとしても不思議ではないし、

    河の名に神の名がついていても少しもおかしくはない。

    河川は今も巨大な財産である。

    灌漑農業が富の源泉だった当時には、

    大砂漠よりも尊い領地だったことを

       改めて認識する必要がある。

    この父娘の名がここに同時に見られるというのは、

    これまで見てきたウバイド→インダス→我が国

       という遷都コースが

    疑う余地のない史実だったことの、強力な証拠だと、

    はっきりここで、再確認しておいて戴きたい。

    こうしたことを1つ1つ確認して行くことによって、

    『記・紀』に対する過去の認識の誤りが、

    白日のもとに明かに見えてくる。

    奇稲田姫の母を田舎婆さんだと思い込んでいた

       歴史家たちが、

    どれくらいヒドい思い違いをしていたかは、

       子供にでもわかる。


   ○インダスから稲敷へ、そして殷への明確な時代わかる

    その都市国家時代はB.C.E.2350年ごろの

    ジェムデト・ナスル期まで続いたが、

    サルゴンの率いるアッカド人に敗北して

    アッカド王朝時代に変わり、

    サルゴンの曾孫・ナラム・シンは

    神名のシンを名乗って自分を現人神に譬えた。

    しかし圧制に反発して

       ウルクやキシュの市民が反乱を起こしたので、

    ザグロス山脈からグデイ人が雪崩れこんで、

    アッカド王朝は崩壊し、グデイ人支配が90年続いたが、

    それを倒したのは、ウルクのウトゥヘガルで、

    メソポタミヤを再びスメル人の手に取り戻した。

    これが新スメル時代で、B.C.E.2112年には

    ウルナンムが王朝を樹てた。

    それが栄えたB.C.E.2060年以後をウル第3王朝と呼ぶ。

    インダスのほうはB.C.E.3500年のスメル支配以後に

    インダス流域に植民し始めて、アムリ文化を生み、

    インダス文明を発達させて、

       B.C.E.1400年ごろまで続いたあと、

    衰微してしまったが、

    その時期がピッタリ、殷の登場期に当たる。

    縄文時代後期である。

    茨城県稲敷郡に移住した歴史的瞬間も

    この前だったことは明らかである。

    先にお話しした遺物から、

       当時の信仰が、やはり水神だったことは、

    器の神象が「竜」を意味していることで明らかである。

    そして稲敷は「水郷・霞ヶ浦」の奥、

    ウバイドそっくりの環境に位置している。


   ○殷という名の真意までわかるスメルの神名

    これを少し補足すると、

    大地と水の神エンキは、

    沖縄大隅語ではインキになり、

    殷の王のインキに一致する。

    殷人という呼び名は、イナンナばかりでなく、

    これからも生まれたことが考えられる。

    それは国土を守る神として、

    農業神以上に信仰の対象になったのだ。

    それはインドやインカのインにも結びつく。

    決して我が国と中国だけに、

       人々と共に運ばれたわけではない。

    この発音差で音を話せない沖縄大隅人は

    本来のスメル人ではないことも判る。

    イナンナはアッカドではイシユタルと呼ばれる。

    この稔りの女神は穀物と野菜と織物原料の植物を授けて、

    人々の衣食を足らせる。

    「衣・イ、食・シュッ・足る・タル」にぴったり合う。

    またタルという語尾は、

    面垂(オモタル)などの神名や

       足・帯・根のタルとも共通している。

    月のナンナルがマンマルになるのは

       ニワトリをミヤドリと訛る

    沖縄語を考えると不思議ではない。

    この言葉に注目すれば、むしろ「真ん丸」のマンは、

    なぜ生まれたかという疑問が大きく、のしかかってくる。

    その謎が、この神名が語源だとわかると、一度に氷解する。

    これらの神々はまた、

    その役割分担も数も

       我が国の開闢神たちと非常によく一致している。

    それだけでなく、

    従来、謎だった神名の真意まで

       明らかに教えるものが全面的に見つかる。
  
    これでも無関係だというには、

    無関係だという理由を挙げて納得させなければならない。


  ○五瀬の命の血沼の海と天降(アムール)人王朝時代

   しかしウンマの隆盛も、

   その侵略を真似た北方の都市国家・アッカドの

   サルゴン王により一朝の夢と消えた。

   ウルク王も50の都市国家も降伏して支配下に置かれ、

   旧メソポタミヤは二分されて北は<アッカド>になり、

   南半分がシュメルということになってしまった。

   紀元前2300年頃のことである。

   勝ったサルゴンは勝利の儀式として

   「血ぬられた武器を海水で洗い浄めた」。

   この「血を海水で洗う」という話は、

   『古事記』の「神武記」にも、五瀬の命が手に負傷し、

   「海で血を洗ったから」血沼(ちぬ)の海というのだ。

   という地名説話がある。

   この場合は何も海まで行って血を洗わなくても

     清潔な水は幾らでもある。

   それをわざわざ海水で洗ったと強調するのは、

   サルゴンが海で行なった浄血儀式の記憶または記録が、

   血塗られた五瀬の命の話にすぐ結びついたとみていい。

   五瀬の命は崇神紀では武埴安彦で、

   その古型は殖安奴津見(エアンナツム)だったのだから、

   間違いなく我が国に伝承されていたのである。

   しかしサルゴン王朝も

   ウルの代官だったナンムによって5代で滅ぼされ、

   ウル第3王朝が紀元前1955年まで続いたが、

   これもアムール人に滅ぼされた。

   シュメルの都市国家イシンと

   ラルサにアムール人の強力な王朝が生まれ、

   アッカドのバビロンその他にも

     中小のアムール人王朝が造られた。

   しかしそれもラルサ王のリム・シンに奪われて

     長続きはしなかった。


  ○事例の背後にあるものを考える事

   この一点がどれだけの歴史的事実を示唆しているか

   充分洞察できるはずである。

   いきなり大きな実例を提出したが「ギリシャ」をみても

   『記・紀』の記述は具体的にその関係を告げている。

   いろんな人々が登場している。

   古代オリエントや諸外国と日本は

   その歴史的真相において直視する必要がある。

   「役小角」を取り上げて地名

   「角鹿」「鹿屋」を記載していたので解読すると、

   シュメル語は(ウル)=牛、ウル・ウリ=鹿。

   牛がトーテムで「角」は「牛=ウル」への「変換当て字」。

   角鹿=ウルウリ、鹿屋=ウリヤと読める。

   「役小角」は「小=ショウ=シ=子」でなんと

   「エンの子ウル」=「エンシ・ウル」と

     解釈できる秘めた名乗り。

   ちなみに「子」は一字で殷王室の姓、

   殷では「子」一字でシュメルを指す言葉となっていて

   シュメル関連を傍証している。

   中身は検討が必要だが、

  「役小角」の名乗りの存在に着目しなければならない。

   存在を軽軽しく見ないほうが良い。

   その上この事実は「言葉の表現、表記」における

   「漢字・言語変換問題」という実に大きな問題を

   検討しなければならない例でもある。

   他の国の関連事例を提出する余裕はないが

   『倭人章』ひとつ取り上げて紀元前後の日本の姿を見るに、

   シュメル、アッカド、ハッチ、ミタンニ、ウガリト、

   ギリシャ、エジプト、ペルシャ、インドなど

   オリエントを中心にした言語は、日本語との関係において

   見直す必要があると指摘しておきたい。

   『倭人章』の読みを提起するが、

   問題はそこに使用されている「言語」であり、

   魏の言語=漢字で記述されているが間接表記されている

  「倭人の言語」である。

   さらに「倭人語のもとにある言語」である。

   このことは『倭人章』の

     解読といった範疇のものでないとだけ

   まず言っておきたい。


  ○漢字の時代別発音表:例題の漢字は魏書倭人章から

  漢字 漢魏音(上古音) 隋唐音(中古音) 北京音(近世音) 広東音

  魏     guwai        giwei          wei            woi

  倭     uwai         uwa            wei            who

  人     nien         nzien          lien           jen

  帯     tad          tai            dai            doi   

  方     piwang       biwang         fang           fong   

  韓     kar          kara           han            hon

  狗     ku           kau            kou            kau

  邪(1)  dzia         zia            hsheh          tse

  邪(2)  dzio         ziwo           hsuh           ya

  對     twad         tua            tuei           tui

  馬     ma           ma             ma             ma

  卑     pieg         pjie           pi             pei

  奴     no           nuo            nu             no

  母     mag          mau            mu             mo

  離     lia          ljie           li             lei 

  一     iet          iet            yi             yat

  大     dad          d'ai           ta             taai

  末     mwat         muat           mo             moot

  盧     lio          liwo           lu             lui    

  伊     ier          I              yi             I

  都     to           tuo            tu             to

  爾     niar         nzie           erh            I

  支     tieg         tsie           chieh          chi

  泄     ziad         iai            hsieh          sit

  謨     mag          muo            mu             mo
      
  觚     kwo          kuo            ku             ko

  柄     piang        piwbng         ping           peng

  渠     gio          giwo           ku             gia  

  兕    dzier        zi             ssu            zia

  不    pwo           puo            pu             pat

  彌(弥)miar          mjie           mi             nei

  多    ta            ta             to             toh

  模   mag           muo            mu             mo

  投    tu            tau            tou            tau

  那   nar           na             na             a.noh

  利   liad          lji            li             lei

  壹   iet           iet            yi             yat

  升   siang         siang          sheng          shing

  獲    gwak          gwek           huo            wok

  佳    keg           kai            tia            chui

  鞮    dieg          diei           ti             tai   

  斯    sieg          sie            ssu            sz

  吾  ngo           nguo           wu             ng

  躬   kiung         kiung          kung           kung

  臣   dien          zien           chen           shan

  巴   pag           pa             pa             pa

  惟   diwar         jwi            wei            wai

  烏   o             wu             wu             oo

  古   ko            kuo            ku             koo

  智   tieg          tie            chi            chi

  持   dieg          zi             shi            ji

  衰   tsiwar        tswie          tsuei          sui

  率(1) sliwat        siuet          shuai          sut

  率(2) liwat         siuet          lu             liet

  己    sieg          ki             tu             kei

  百    bak           bbk            po             paak

  郡    giwan         giuan          chun           kwan

  好    xog           xau            hao            ho

  呼    go            guo            hu             foo

  姐    tiet          tiet           chieh          tse

  蘇    so            suo            su             so

  邑    iap           iap            yi             yap

  華    gwa           gwa            hua            wa

  鬼    kui           kwi            guei           kwai

  為    gwia          jwie           wei            wai

  難    nan           nan            nan            naan

  米    miar          miei           mi             mai

  市    dieg          zi             shi            shii

  牛    ngiug         ngjian         niu            ngau

  声    sieng         siang          sheng          shing

  耆    giar          gii            ki             kei

  掖    ziag          ia             ye             yat

  弓    kiung         kiung          kung           kung

  素    so            suo            su             so

  載    tsag          tsai           tsai           tsoi

  越    giwat         jiwbt          yue            uet

  與    zio           iwo            yu             ue

  興    xiang         xiang          hing           hing

  挙    kio           kiwo           chu            kui

  噫    ai            oo             I              I

  臺    dag           dai            tai             toi

  ※カールグレンと加治木による アクセントは省略

  「カールグレンと漢音」

  スェーデンの支那(中国)学者

   ベルンハルド・カールグレンは

  1915年以来、

  中国文化についての優れた業績を残したが、

   中でも中国語の声韻が、

  時代によって大きく変化したことを、

   はっきりと突きとめ、

  それを一般に理解し易い形で解説してくれたことは、

  中国語ばかりでなく、

   漢字文化の一面を担う日本の古代史学にとっても、

  貴重な貢献であったことを忘れてはならない。

  彼はこの学問の創始者でもなく、

   またその結果にも限界があるが、

  それは人力として当然のことであって、

  彼がこの学問を新らしいシステムによって

  人類に役立つものに高めた事実は

  永く感謝される価値をもっている。


  ○『倭』連邦の国名の由来と位置

  数詞 発音 当て字 言語『魏書倭人章』在った場所(発音の変化)

  一の国 ヒ の国 日の国 薩摩語      鹿児島県

  一の国 イチ 国 壹 国 魏語  邪馬壹国 隼人町浜之市

  一の国 イティ国 一大国 魏語  一大国  長埼県壱岐

  一の国 サツ マ 薩 摩 マレー語     鹿児島県西部

  一の国 ウノ 国 呉の国 大隅語 烏奴国  鹿児島市小野

  一五国 インゴ国 肥後 薩摩語為吾国 熊本県(インゴ~ヒゴ)

  二 国 フタ ラ 普陀落 沖縄語      百済

  二三国 フーミ国  魏語 不弥国 久留米市(フーミ~クーメ)

  二九国 フコ 国 日向 大隅語 不呼国 宮崎県(ピューグア)

  三の国 ミノ 国 三 納 大隅語 弥奴国 宮崎県児湯郡三納

  四の国 ヨーナ国 与那国 パーリ語    沖縄県与那国島

  四の国 シーの国 日の国 大隅語     鹿児島県

  四の国 シマ マ 島 間 沖縄語 斯馬国 種子島南種子町

  五の国 イツ 国 五津国沖縄語伊都国佐賀県牛津(ゴツ~ウシヅ)

  五三国 イザ 国 伊佐郡 薩摩語 伊邪国 鹿児島県伊佐郡

  六の国 リク 国 六 合 呉語   沖縄県と台湾(琉球国)

  七の国 ナーツ  那之津 沖縄語 奴国  福岡市娜の津

  七八国 ナハ 国 那 覇 沖縄語 奴国  沖縄県那覇市

  八の国 ハイ 国 針 持 パーリ語巴利国 鹿児島県大口市

  八の国 ヤ  マ 山 野 薩摩語 邪馬国鹿児島県伊佐郡山野

  九の国 クヌ 国     マレー語狗奴国 鹿児島県熊毛郡

  九五国 コユ 国 児 湯 薩摩語 呼邑国 宮崎県児湯郡

  九五国 クイノ国 粟 野 大隅語 鬼奴国 鹿児島県栗野町

  九八国 クジャ韓国 巨済島 魏語 狗邪韓国 韓国慶尚南道

  十の国 トオ マ 十 島 薩摩語 投島国  鹿児島県十島村

  十の国 ジュンジ 十文字 大隈語 都支国 鹿児島県加治木町

  十の国 ソノ 国 襲の国 古 語 蘇奴国 鹿児島県大隈半島

  五百国 イバチ  葦北 沖縄語已百支国熊本県芦北郡(イホキ)

  千の国 チノ 国 天・震丹沖縄語 姐奴国 沖縄~種子島



  ○倭の五王の名乗り 

  1・イチ 壹與  =伊予 =愛媛県

   (1から5まではチャイニーズの数詞)

  2・ニイ 二名島 =新居浜=愛媛県 

  3・サン 倭王・讃=讃岐 =香川県

   (讃岐はサン王という意味)

  4・シ  倭王・珍=茅沼 =大阪府

   (沖縄語でシはチ。ノ=ヌ=助詞のノ)

       倭王・済=百済 =大阪府

   (セイは沖縄語でシー)

  5・ゴ  倭王・興=河内 =大阪府

   (興にも河にもゴの発音がある)

  6・ム  倭王・武=高市 =奈良県

   (6からはヤマト言葉の数詞)
 
  7・ナ  奴国  =奈良 =奈良県(ナラはナ国)

  8・ヤ  ヤマト

  これでいくと

  「8・ヤ」はヤマトであった可能性もある。

  4が二人の倭王にダブっているが、

  仁徳天皇系皇朝は珍の代で絶え、

  その後に別系の済が入ったことがわかっているから、

  ダブっていて当然なのである。

  それよりも面白いのは、

  1から5までの数詞と、

  6から8までの数詞の

  「国籍」が変わっていることである。 

  これは一体なにを意味するのだろう……。


  ○日本語の定義を変えた古代都市

   スサノオの故地・スサはフジスタン地方にあって、

   アケメネス王朝の永田町=中央政庁の所在地.

   真の首都といえる新市だったが、

   国王は冬は暖かいバビロンにある冬宮に居り、

   夏はエクバタナ(元メディア王国の首都)の

   夏宮に居るという状態で、

   王の宮殿がある所が首都だとすれば、

     五つの首都があったことになる。

   もう一つの首都は王朝の開祖・キュロス2世が建設し、

   代々の王たちが即位式をした都で、

   天皇家の京都にあたる

     儀式用都市・パサルダガエ(パルサ)。

   そこから45kmの位置に、

   さらに建設されたのがペルシャの国名のもとになった

   最大の都市・ペルセポリスで、

   ここは外国からの客を迎えるための

     外交、交易用に、

   いろいろな工夫が凝らされている。

   たとえば都市の玄関に当たるのは西から東へ昇る階段で、

   朝日に向かって登らされる仕掛けになっている。

   すでに我が国の

    「日の国思想」と無関係ではないことがわかる。

   昇りきると大広間があり、

   正面に石造牡牛座が2頭、左右対照に置かれている。

   神社の狛犬と同じ発想だ。

   壁面には古代ペルシャ、アッカド、エラム3語で、

   「余、クシャヤールシヤン王は

       アウラマツダ大神のご命令に従い、

    この万国殿を建造した」

     という碑文が彫ってある。

   またこの宮殿の基礎の石面には

   朝貢にやってきた国々の使節と献上物が

     延々と彫られている。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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