2012年5月25日金曜日
嶋津の庄(都城市)が旁国の斯馬国か?
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録11:21頁
《嶋津の庄(都城市)が旁国の斯馬国か?》
「嶋津の庄(都城市)が旁国の斯馬国か?」
こうして志賀高穴穂朝が小国日本国の朝廷だったことが明確になると、
そこで任命された「嶋津国造」は、
三重県の志摩の領主であるはずがない。
この山偏(やまへん)の嶋の字を使う嶋津氏は周知のとおり
江戸時代以前から薩摩・大隅・日向三か国の大守である。
その嶋津というのは、
宮崎県都城市にあった
嶋津の庄=現在の庄内町を中心にした一帯の8000町歩に及ぶ日本では
他に例を見ない大な荘園の名で、
11世紀のはじめ太宰の大監・平の季基と弟・判官良宗が
整備して宇治関白・近衡頼通に賄賂として贈ったもので、
のち鎌倉時代初期に、
嶋津氏の初代忠久が1184年夏、
源頼朝によって庄宮=管理者に任命され着任したことから、
それを姓としたものである。
「嶋津国造」は、小国・日本国時代の都城地区一帯の支配者で、
そこが旁国筆頭の斯馬国だったと仮定すれば、
それは都城市の古名だったことになる。
またそこが斯馬国かどうかを別にすれば、
成務時代より古い卑弥呼時代の旁国が、
本州や四国にまで広がっていたことは絶対になく、
それは九州内部にあったことが以上で確認できた。
これで、こ
の国造名と旁国名の比較検討は、
少なくとも在来の本州説より、
はるかに確実性の高い、
真実の史実に近い答を教えてくれる事実が確認できたのである。
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