2012年5月22日火曜日
『景初三年鏡』の持ち主は反正天皇か
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:38頁
《『景初三年鏡』の持ち主は反正天皇か》
「『景初三年鏡』の持ち主は反正天皇か」
三角縁神獣鏡より以上に、
「卑弥呼の鏡か?」と騒がれていたのは、
卑弥呼が魏に始めて遣使した年の翌年=景初3年の銘文をもった
略称『和泉景初三年鏡』で、
これは大坂府泉南市の
前方後円墳「和泉黄金塚古墳」発掘調査で判明した副葬品のひとつである。
この古墳は
全長85m、前方部の長さ28m・幅34m・高さ6m、後円部直径57m・高さ8mあって、
南北に長く、後円部中央に棺槨3つ、東西に並んでいた。
『景初三年鏡』が入っていた中央の棺は、
遺骨はないが副葬品が鏡と玉類だけなので、
彼葬者は女性とされる。
東棺には頭部部分に中年以後の男性の歯と僅かな遺骨のの破片があった。
西棺は刀剣・甲冑・鏃などから男性とされ、
高位の女性を中央に、
男性2人が左右を守る形になっているので卑弥呼の墓かといわれたが、
古墳の構造や副葬品の形式年代から4世紀に築造されたもので、
高位の人の古墳ではあるが、
卑弥呼の墓ではないことになった。
和泉(いずみ)の語源は「倭済」で、
倭の五王の一人「済」の領土だったことになる。
この倭・済と反正天皇の名乗り「多・遅比」は共にオオ・ジヒと読める。
塚名の黄金はオオキンと読めるから、
大君の南九州発音と同じである。
これが行方不明の反正天皇陵だとすると、
4世紀の倭国が女王制だったことを証明する凄い遺跡ということになる。
次巻で辞しく検討しよう。
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