2012年5月22日火曜日

戦死した太守は生き返ったのか?



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録10:33~34頁

 《戦死した太守は生き返ったのか?
 「戦死した太守は生き返ったのか?

 次は、同じく「書いてない」ものでも、

 これまでのとは少し違う種類の例を挙げてみよう。

 それは『魏書倭人章』には書いてないが、

 同じ『魏書東夷伝』中には記録されている記事が、

 非常に重要な事実を明かにする例である。

 梯儁正始元年に、

 帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)の命令で派遣されて倭国へやってきた。

 原文では次のように書いてある。

 「正始元年 太守 弓遵 遺 建中校尉 梯儁 等」

 ところが『魏書東夷伝・韓章』にこんな記事がある。

 「景初中(237~239年の間)、

  明帝は密かに海を越えて帯方と楽浪の太守を朝鮮半島へやり、

  帯方と楽浪の2郡を取った。

  そして諸韓国の有力者たちに邑君や邑長といった位と、

  その証拠の印授を与えた」。

 これは当時まで半島の大半は公孫氏が領有していたが、

 魏はそれを倒して2郡を奪うため、

 軍隊をひきいた2郡の新任太守を任命して、

 公孫氏の背後にある半島に送りこんで、

 公孫氏を挟撃して滅ぼした後、

 帯方以南の馬韓・辰韓・弁韓の3韓を懐柔した時の話である。

 そのとき郡従事という役職の呉林という男が、

 ご機嫌取りにか、

 漢代には楽浪郡が韓人を支配していたのだからと、

 辰韓のうちの8カ国を引き離して楽浪郡領に編入してしまった。

 そして理由を辰韓に説明したが、

 通訳がまずくて誤解を生じ、納得させられなかった。

 辰韓の支配者だった

 臣濆沽(しほこ)は激怒して、

 軍勢を率いて帯方郡の崎離営(きりえい)という本営を攻めた。

 そのとき帯方太守は弓遵に変わっていたが、

 楽浪太守も援軍に加わって辰韓軍と戦った。

 だが弓遵は激戦の中で戦死してしまい、

 怒った2郡はついに韓を滅ぼした。

 『魏書東夷伝・韓章』では、

 ここまでが景初中(237~239年の間)の記事に入っている。

 ところが、『魏書倭人章』には

 「正始元年 太守 弓遵 遺 建中校尉 梯儁 等」と青いてある。

 いうまでもなく正始元年は景初3年の翌年である。

 景初中に戦死した弓遵が、

 正始元年には生きていて、

 梯儁らを倭国へ派遣したことになる。

 この2つの記事は、

 『韓章』と『倭人章』という

 2つの章に分割して書かれているので、

 相手側にある半分の記事は、

 互いに一見「書かれていない」。

 そのためこれまで問題にした人を知らないが、

 こうして2つ合わせて読むと、

 実に奇妙な記録にみえる。

 だが現実には、

 戦死者が生き返って、もとの太守に返り咲くことなどないから、

 弓遵が梯儁を派遣したほうが先で、

 梯儁の出発後に

 臣濆沽(しほこ)戦争が起こったことは間違いない。

 それでは梯儁はいつ派遣されたのだろう。

 派遣記録は帯方郡で書き、郡の書庫に残るから、

 その正始元年は彼が命令を受け出発した年である。

 弓遵は正始元年に死んだのだ。そ

 れが景初中の事件にみえたのは

 『魏書東夷伝・韓章』の記録ミスだが、

 この例は

 「『魏書倭人章』だけ見ていても正確な史実はつかめない」

 という重大な警告なのである。

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