2012年5月28日月曜日
正字は巳百支、位置は熊本県芦北郡
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録11:26頁
《正字は巳百支、位置は熊本県芦北郡》
「正字は巳百支、位置は熊本県芦北郡」
実はこの答はやさしい。
なぜなら水俣市は本来は芦北郡の一部だったからである。
最初に見た葦北と水俣は同じものだったのだ。
ではなぜ?、イホキとミマキに分裂したのだろう?。
それは『魏書』の原書に使われている「巳」の字は、
日本ではイとミの両方に発音されてきたからである。
前記のようにミマチのチに都の字を当てたものはミマタと読んで、
やがてそれに「水ミ・俣マタ」という当て字をした。
一方ミマチを沖縄語とみて、そのチをキに翻訳したものは、
ミマキという天皇の名乗りになってしまった。
ついでにいうと、
第五代の孝昭天皇は観松彦という名乗りをもっているが、
これはミマツ彦だから、
やはりミマ都という名乗りで、
御間城入彦のほうは、
そこへ入り婿した日子という名乗りなのだ。
もう1か所の三股は都城市だから嶋津の庄=斯馬国と重なっている。
なぜ重なったのか?。
その理由は,巳百支国の人が
後にそこへ移住したためだとする以外、考えられない。
これが同時に教えてくれるのは己百支の志布志と親治国造の真相である。
これも成務天皇の時というから崇神天皇より後世である。
それはもとの旁国名と当て字が変わってしまっただけでなく、
発音もイホキからシブシに、
さらにシムチと沖縄~大隅語化している。
やはり三股と同じく、
これも後に薩摩半島西岸から東方に移住した史実の遺物なのである。
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