2012年5月25日金曜日
動かぬ証拠、7世紀まで日本国は小国
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録11:17~18頁
《動かぬ証拠、7世紀まで日本国は小国》
「動かぬ証拠、7世紀まで日本国は小国」
旁国本州説がどう間違っていたかは、すでに明らかなのだから、
在来の史観のままの地域だと信じるなら、
当然この9朝、10天皇の政権の所在地も疑問に満ちている。
『旧事本紀』は『先つ代の旧き事の本紀』という書き出しから、
『先代旧事本紀』が正しいと主張する説もあり、また偽書説もあるが、
完全に後世の作文だとわかる『記・紀』より人名などへの当て字が古く、
また『記・紀』に現われない独自の人物が記録されているので、
『記・紀』が書き替えたり、
消してしまった史実を保存している可能性を考えると無視できない。
こうした新たな観点で旁国名と国造の名乗りとを比較検討すれば、
さらに明らかになることが多いはずである。
1つずつみてみよう。
1 斯馬 場津国造、志賀高穴穂朝
この志賀高穴穂朝は景行天皇のときに都したと
『日本書紀』に書いてあるから、
その王孫である成務天皇まで続いた政権名だ。
それなら動かぬ証拠があるから、答は簡単である。
成務天皇は日本武尊の王子だが、
父の日本武尊はその名乗りでわかるとおり、
日本国の支配者である。
その日本国は670年に、
倭国が消えて日本になるまでは鹿児島県にあった小国にすぎなかった。
『旧唐書』には大国倭国と対置して小国日本国が併記されているが、
日本国は東西南北各数千里、
西界南界みな大海にいたる。
東界北界大山あり、限りとなす。
と書いてある。
これらの条件の全てが日本列島中ただ1か所、
鹿児島県だけにぴったり一致する。
それが7世紀までの日本国なのだから、
3~4世紀の人である日本武尊は当然、
鹿児島王だったのであり、
彼は九州から外には出ていない。
『記・紀』が描く彼の東征は、
その小国日本周辺の事件で、
それを『日本書紀』編纂時に拡大し、
脚色したことは一目瞭然だ。
その父の景行天皇から王子の成務天皇まで続いた志賀高穴穂朝は、
鹿児島県以外にありようがない。
志賀高穴穂というのは鹿児島県の中の地名に対する当て字なのである。
その謎解きをしてみよう。
志賀 = シカ = 鹿 高 = コ 穴 = ケチ 穂 = ホ
鹿 児 ケ千 穂
鹿児ケ千穂。
穴をチだけの表音文字とみると
鹿 高千穂になり、現在の鹿児島神宮の辺りが、
古代の高千穂の宮跡だというのと、無関係だとは考えられない。
そればかりか、
景行天皇紀に書かれた「近江の国」と、
鹿児島湾の別名「錦江湾」の名は「近江」と
まったく同じ漢音で「キンコウ」だから近江と、
錦江もまた、たんに当て字が違うだけなのである。
この他にも大量にある証拠群で、
志賀高穴穂朝が鹿児島県内にあったことは動かせない。
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