2012年5月20日日曜日

邪馬壹はなぜ?卑弥呼の敵か?



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録10:28頁

 《邪馬壹はなぜ?卑弥呼の敵か?
 「邪馬壹はなぜ?卑弥呼の敵か?

 ② 第2回郡使の「張政が到着した当時」であって、

 それはこう書いてある。

 「自 郡 至 女王国 萬二千余里」

 これは伊都国までが10500里だから、

 もう1500里遠くなっているので、

 梯儁の知らない新しい女王国である。

 この位置が八代市あたりで、

 そこから南に女王国が広がっていたことは先に見た。

 これで梯儁が帰ったあと、

 女王国が移動した事実が立証されている。

 ③ 「卑弥呼の死後」である。

 それは次の記事で証明されている。

 「南 至 邪馬壹国 女王之所都 水行十日 陸行一月」

 女王が都しているのだから、

 邪馬壹国が女王国であることは考えるまでもないが、

 その位置は②と同じでなくてもかまわないが、

 今度の変動の主役は位置ではなくて、

 その国の女王が卑弥呼から壹與に変わり、

 国名も倭から邪馬壹に変わったという大変動である。

 それは女性仏教徒を意味する「ウワイ=倭」という名を嫌って、

 シバ神を意味する国名の「ジワマ=ジワ国(マ)=邪馬」を標榜する

 「神を祭祀する=斎(いつ)く(南九州方言イチッ=壹)国=邪馬壹国」

 に変えたもので、

 もちろん卑弥呼の死後、

 壹與が新政権首長に就任した後の国名なのだから、

 妄想の産物=邪馬台はもちろん、

 卑弥呼はヤマイチも知るはずがないのである。

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