2012年5月31日木曜日

決定的な立体証拠群が立証した都支国=川内市



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:31~32頁

 《決定的な立体証拠群が立証した都支国=川内市
 「決定的な立体証拠群が立証した都支国=川内市

 4 都支  高国造(志賀高穴穂朝)

 この国造も志賀高穴穂朝だから、やはり鹿児島王朝時代である。

 前のイジャと同じく当時は沖縄発音だった可能性を見逃してはいけない。

 沖縄語ではトはツかタになる。

 都支は to tieg =トチで、

 この3世紀のトチ国は、

 沖縄発音のトは後世の薩摩ではタになり、

 チはキになるので、

 今は川内市になっている「高城=タキ」に一致する。

 これを高国造と比較して見ると、

 鹿児島語では高・竹はどちらもタカ・タケという発音をもっており、

 タケは大隅発音で沖縄発音化してタキになるから、

 この「都支」と「高」とは同じものだと証明でき、

 同時にそれは高城という当て字でも同じだと立証できる。

 この地名には、

 もう1つ、忘れてはならない記録がある。

 それは卑弥呼が景初2年に魏に出した使者の1人、

 「都市牛利」である。

 支と市はどちらも

 漢魏音で tieg =チまたはチェグ、

 都支と都市は同じ発音への2つの当て字で、

 内容は変わらないから、

 都市牛利は都支国王を意味する名乗りだったのである。

 この人物は『記・紀』にも記録が残っている。

 崇神天皇の皇子・豊城入彦命である。

 都支をトキと読んで、

 豊城と当て字したものだが、

 その同母妹と書かれた豊鍬入姫命という名乗りも、

 トスキイリで、

 都市牛利=トシギウリと帯方郡使が当て字した同じ名乗りが、

 やはり原音だったことがわかる。

 するとこの兄妹は、

 夫妻にだけ許される同じ名乗りをもっている以上、

 彼等は兄妹ではなく、

 今の川内市の領主夫妻だったということまで、

 さらに確認することができる。

 その都市牛利は魏の都・洛陽まで行って、

 率善校尉という男性の官位を受けた人物なのだから、

 絶対に女性ではない。

 都市牛利が豊城入彦命だったことは間違いない。

 また「都支国」は、

 『魏書』には「郡支国」と書いてある。

 それは「 giwan tieg 」でギワンチまたはジュンチと発音できるので、

 後者をとって「ジュンチ=十の字」と仮定して候補地を選んだことがあるが、

 都支のほうにはご覧のとおり

 『日本書紀』にも『旧事本紀』の『国造本紀』にも、

 こんなにぴったりの記録があるのに、

 その郡支国には、合う地名はあるが、史実の記録がない。

 これは都支が正しく、

 郡支が都支の誤写または虫食いによる仮の当て字だったことを立証している。

 こうしてこの国の真相は

 『魏書』『日本書紀』『旧事本紀』の

 3つのパズルが立体的にしっかり組み合わさって、

 証拠が互いにささえあって始めて完全に解けた。

 一見、無駄にみえた国造本紀が、

 意外なほど決定的な証拠力を発揮した。

 文献史学の解明研究には常に徹底した比較検討が必要だということを、

 身に染みて理解させる何よりも貴重な教訓を、

 私たちはこれらの実例から深く学びとらねばならない。

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2012年5月30日水曜日

伊邪国は九州で唯1か所、伊作だけが一致



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:28~30頁

 《伊邪国は九州で唯1か所、伊作だけが一致
 「伊邪国は九州で唯1か所、伊作だけが一致

 3 伊邪  伊勢国造(橿原朝) イセ・イゼイ・イシ

 これな神武天皇時代だという。

 『記・紀』の神武天皇記事は複数の天皇の史実の合成作品だったことは、

 すでに確認ずみだが(注 日本誕生シリーズほか参照)、

 その中心になったものは3世紀の山上王位宮の事跡で、

 すなわち卑弥呼当時。

 この伊勢国造は三重県の伊勢とは無関係なことは、

 もう議論する余地はない。

 伊勢という地名は三重県以外にも大量にあって、

 鹿児島県下にも多いが、

 それは海岸の地形をあらわす名詞で、

 海岸が砂浜ではなく、

 岩石で覆われて崖(がけ)になったところをいう、

 地域によって南向きのものを指すといった変化はあるが、

 それは一定していない。

 いわゆる磯と同じものが方言化したものである。

 だから伊邪国を地形起源の伊勢に当てるのは間違いだが、

 ついでに皇大神宮の伊勢の語源になった地域が、

 鹿児島県北部の伊佐郡と、
 
 その首都にあたる大口市であるというお話しを知っておいていただきたい。

 『日本書紀』欽明天皇紀の冒頭に、

 「天皇が幼いとき秦大津父という者を寵愛すると成人後かならず天下がとれる」

 といわれた夢を見て探させたところ、同じ名の人物が見つかった。

 するとその人は

 「伊勢に商いに行く途中、

  血まみれになって争っている2頭の狼に出会いましたので、

  お前たちは貴い神なのに、

  争っていては猟師に殺されてしまうぞ、と言い開かせて、

  血を拭って助けたことがありました」と体験を話した。

 天皇は

 「なるほど!だから神が夢で教えてくださったのだ!」

 と喜んで近侍にしたところ

 大いに富み栄えたので、その人を大蔵大臣にしたという話がある。

 狼の古名は大口の神という。

 伊佐の大口は「伊勢の大神=狼」という意味をもち、

 切っても切れない関係にある。

 これは大口市が

 皇大神宮発祥の地であるとするほかない重要な地名文化財の一例である。

 薩摩語は a を e と発音する場合が多い。
 
 大根はデコン、

 貝はケ、

 眼の古語マがメになったのも

 薩摩語が標準語になったことの遺物である。

 伊佐はイセという発音に対する当て字だから、

 神武天皇時代のこの

 伊勢国造は「伊佐郡の支配者」を意味している。

 けれども「伊邪は iar dzia 」でイァジャなので、

 伊を後世の固定した発音で、

 イと発音しても、

 イジャになる。

 これはイセ・イサの清音とはかなり遠い。

 この旁国の国名なら、

 どうしてもイジャに近い濁音の地名でなければいけない。

 だがイジャという発音には、

 薩摩語なら必ず変化するという動かせない原則的特徴があるそれは

 イジャとかショウユ、ショウチュウといった

 「シャ・チャ・チュ・キャ」などの拗音を嫌って

 全く使わないことである。

 だから

 醤油はソユ、

 焼酎は本場なのにショウチュウとはいわずソツという。

 正月もソガッ、

 医者はイサ、

 料理屋に至ってはラ行がザ行と母音に変わって、ズイヤになる。

 イジャは必ず「イザッ」になる。

 すると伊邪国のあったところはただ1か所に限定される。

 それは現在も昔のままイザッと発音されている「伊作」である。

 しかし残念にも今では吹上町と改名されて、

 温泉とバス停にしか名が残っていないが、

 名勝地・吹上浜を挟んで遠く北の

 東市来(いちき)町中海岸にも伊作田の地名が残るので

 古代伊作の勢力範囲がわかる。

 卑弥呼当時にはまだ薩摩語は入らず、

 原音のイァジャで呼ばれていたが、
 
 後にイジャからイザッになり、当て字も変わったのである。

 このイジャという発音は、

 鹿児島語でないとすればどこの言葉か?。

 それは沖縄語である。

 古謝クジャ、

 我謝ガジャ、

 比屋定ヒヤジョウ、

 北谷チャタンなどという拗音の地名や姓が

 かなりの量、残っているからである。

 崇神天皇の皇子「伊邪能真若=イザノマワカ」は、

 この伊作の伊邪国王という名乗りをそのまま伝えている。

 これもまた崇神天皇朝が奈良でなく鹿児島県にあり、

 卑弥呼政権であったことの疑いようのない確証の1つなのである。

 この伊作という地名は移動も拡大もしなかったから、

 薩摩半島だけにしか残らなかった。

 それだから動かない史実の証拠として非常に強い力をもつ。

 これはどの貴重な文化財はないといっても、

 言い過ぎではない。

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2012年5月29日火曜日

同じ文字が別の国名を作り出すか?



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:27頁

 《同じ文字が別の国名を作り出すか?
 「同じ文字が別の国名を作り出すか?

 ここで、

 国名が分裂して殖えるのはなぜか?

 という問題を片づけておこう。

 日本といえば、

 確固たる国家で太古から実在した政権なのだから、

 その国名は一地方政権にすぎない国造の名のような

 読み替えは起こらないと思い勝ちだが、

 在来の説では最初はヒノモトと読まれていたものがニホンになり、

 ニッポンになったという。

 だがその名の発生地域が南九州であることを考えると、

 南は赤の地域で、

 赤は古語では丹(ニ)であり、

 そこには丹の島という意味と、

 タンが島という発音が重なって考えられる「タネガシマ」があるので、

 ニホンは丹本が語源で、

 それを好字に換えて日本としたとみるほうが進んでいる。

 その日本は海外ではさらに

 ジープン、

 リーペン、

 ジャパン、

 ニヤポン、

 ハポンなどと呼ばれている。

 しかしその基になったのは「日本」という2字の漢字である。

 漢字は中国の政権変動と人々の大移動により、

 時とともに別の発音が次第に殖える。

 1つの名が時代とともに、また国によって発音が変化して、

 別の名が生まれるという決定的な答がここにある。

 だから旁国・巳百支の場合も、

 南九州ですでに分裂し、新しい当て字がつけられ、

 それがまた別の発音で読まれて殖えていった。

 その経過記録はすでに消滅しているが、

 その対応地名が南九州に集中しているから、

 女王国の位置を尋ねる私たちの目的は充分達成している。

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2012年5月28日月曜日

正字は巳百支、位置は熊本県芦北郡



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:26頁

 《正字は巳百支、位置は熊本県芦北郡
 「正字は巳百支、位置は熊本県芦北郡

 実はこの答はやさしい。

 なぜなら水俣市は本来は芦北郡の一部だったからである。

 最初に見た葦北と水俣は同じものだったのだ。
 
 ではなぜ?、イホキとミマキに分裂したのだろう?。

 それは『魏書』の原書に使われている「巳」の字は、

 日本ではイとミの両方に発音されてきたからである。

 前記のようにミマチのチに都の字を当てたものはミマタと読んで、

 やがてそれに「水ミ・俣マタ」という当て字をした。

 一方ミマチを沖縄語とみて、そのチをキに翻訳したものは、

 ミマキという天皇の名乗りになってしまった。

 ついでにいうと、

 第五代の孝昭天皇は観松彦という名乗りをもっているが、

 これはミマツ彦だから、

 やはりミマ都という名乗りで、

 御間城入彦のほうは、

 そこへ入り婿した日子という名乗りなのだ。

 もう1か所の三股は都城市だから嶋津の庄=斯馬国と重なっている。

 なぜ重なったのか?。

 その理由は,巳百支国の人が

 後にそこへ移住したためだとする以外、考えられない。

 これが同時に教えてくれるのは己百支の志布志と親治国造の真相である。

 これも成務天皇の時というから崇神天皇より後世である。

 それはもとの旁国名と当て字が変わってしまっただけでなく、

 発音もイホキからシブシに、

 さらにシムチと沖縄~大隅語化している。

 やはり三股と同じく、

 これも後に薩摩半島西岸から東方に移住した史実の遺物なのである。

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2012年5月27日日曜日

巳百支は崇神天皇の名乗りに一致



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:25頁

 《巳百支は崇神天皇の名乗りに一致
 「巳百支は崇神天皇の名乗りに一致

 次の「巳百支 mieg bak tieg 」は

 ミェバチ、ミバチ、ミバキといった音で読める。

 すると沖縄発音のバは馬・麼の例でよくわかるように、

 大隅発音ではマだから「ミマキ」で、

 崇神天皇の名乗りと同じになる。

 ミマキは

 『日本書紀』御間城

 『古事記』御真木と書く。

 崇神朝は瑞籬(みずがき)朝だったからというのではないが、

 これに一致する国造は、

 国造本紀との対比表で巳百支と対比した「神野国造」である。

 なぜこの神野が一致するのか?。

 奈良県天理市の「大神神社」はオオミワ神社と発音する。

 神はミワなのである。

 だから神野は「ミワの」であり、

 この助詞の「の」を、

 助詞の「津」に置きかえると「神津」、

 津は沖縄発音チだからミワチ。

 これはミバチに対する当て字から容易に生まれる。

 水鉢をミバチと読む人と、ミハチと読む人があり、

 ミハチをミワチと発音する人があるからだ。

 この国造名は、

 敗者卑弥呼政権の男弟・崇神天皇の名乗りを消す目的で、

 わかり難い当て字を使ったのである。

 ミマキに合う地名は

 愛媛県に三間、

 熊本県に水俣、

 宮崎県に三股があるが、

 それらは沖縄~大隅発音のミマチのチに都の字を当てたため、

 あとでミマタと読みがかわったことがわかるから、

 崇神天皇朝が鹿児島政権だったことと、

 原音を残していることで、

 3世紀当時の芳国・巳百支は三股か水俣のどちらかである。

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2012年5月26日土曜日

己百支(しぶし)に一致する鹿児島県志布志



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:23~24頁

 《己百支(しぶし)に一致する鹿児島県志布志
 「己百支(しぶし)に一致する鹿児島県志布志

 しかし己だと「 sieg シェ・シ・セ」だから全く異なった地名になる。

 己百支 sieg bak tieg シェバチ、シェバキ、シポチ、シボキ、シボシ

 己百支はシェバキ、シボチ、シボシなどと幾とおりにも読めるが、

 このシボシの大隈発音だと、

 ボがプになるのでシプシ。

 現在ある鹿児島県曽於都志布志町の名と完全に一致する。

 それにいちばん近い国造の候補は

 「親治国造(志賀高穴穂朝)である。

 これはシムジ・シムチと読めるので、

 その発音だけが残っていた後世に、

 沖縄発音のプを南九州発音でムと発音して、

 それに合わせて当て字した可能性がある。

 このプとムの変化は、

 武・無などの文字が両方の発音をもっていることは周知の事実だから、

 志布志シプシと親治シムチは方言差への当て字めちがいだけなのである。

 親の字はシンという漢音をもつから新治と書き替えたものがあり、

 ついで「ニイバリ」と発音されて、茨城県の地名とされ、

 『日本書紀』はわざわざ古風な万葉ガナを使って

 「珥比磨利、菟玖波塢須擬弖、異玖用伽邇菟流…、

  新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる…」と書き、

 『古事記』はさらに発音に合わせて

 「邇比婆理、都久波衰須擬弖、伊久用加泥都流…」と

 補正している。

 なぜそんなことをしたのか。

 その答は『旧唐書』がよく説明している。

 「日本国は倭国の別種…日本はもと小国、倭国の地を併せたりと…

  その入朝者は多く自ら衿(きょう)大(偉そうにしていて)実をもって対(こた)えず

  (本当のことを言わない)」。

 当時の日本人遣唐使は、

 唐に対して非常にコンプレックスをもっていて、

 侮(あな)どられまいとして、

 態度が固く尊大で、

 事実を率直に語らず、すべてに嘘が多い。

 と書いている。

 『日本書紀』は漢文で書いてあることで明白なように、

 唐に対する宣伝用の文書である。

 朝鮮半島の百済植民地と大国高句麗を滅ぼしたのは、

 新羅を援助した唐の軍事力だったから、

 その唐の同盟軍だった天智天皇系政権を倒して皇位についた

 天武天皇は、

 その唐を牽制することに全力を傾けた。

 その謀略戦の最大の武器が『日本書紀』だったのである。

 その時、生まれたばかりの彼の日本国は弱点だらけだった。

 とくに彼等は南九州からやってきたよそ者で、

 わずかに奈良と周辺を守るだけの味方しかもっていなかった。

 唐がそれにつけこんで、

 侵略してくれば、ひとたまりもない。

 それをさせないためには、

 彼天武天皇は、

 広大な日本列島の太古からの天皇家の後継者であって、

 彼のためには全国民が総力戦を戦うと唐の政治家たちに思わせねばならない。

 日本武尊は小地域の英雄ではなく、

 東北地方にまで名の轟いた偉大な皇子で、

 天武はその血をうけた貴い後継者である必要があったが、

 まるっきりの嘘は通用しないから、

 史実や伝承をできるだけ拡大して編集したのである。

 これで親治国造が志布志の統治者だったことが、

 一層よく理解できたと思う。

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2012年5月25日金曜日

已百支(いほき)国に一致する熊本県葦北郡



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:22頁

 《已百支(いほき)国に一致する熊本県葦北郡
 「已百支(いほき)国に一致する熊本県葦北郡

 この国名の頭文字はこれまで3通りに読まれてきた。

  已  「iag イァ・イ・ヤ」。

 己 「sieg シェ・シ・セ」。

 巳 「mieg ミェ・ミ・メ」。

 已百支の原音は「iag bak tieg イァバチ」だが、

 これに合う発音の国造名はない。

 しかし已百支はイホキまたはイホシと読めるので、

 その発音だけが残っていた後世に、

 それに合わせて当て字した可能性もあるから、

 それに近い候補者は2つある。

 2 已百支 盧原告造(志賀高穴穂朝) イホゲン、イホハラ、イバラ

    已百支  葦分国造(纏向日代朝)  イハキ→イハチ、イワケ、イブン

 3世紀は大隅が沖縄勢力下にあった時代であり、

 沖縄語は

 ホはフかハに、

 ケ・キはチに、

 セはシ・チに 

 変わることを考慮して候補を集めてある。

 それでいくと、

 この中でも葦分国の、

 イハチがイァバチに最も近く、

 沖縄語ではホがフに、

 助詞の津の発音がチであることを思えば、

 それが大隅ではンになるから、

 イブンという発音やの原語はイホチだった可能性があり、

 どちらを見ても葦分国造が群をぬいているので、

 これを該当者と認めるほかない。
 
 これは景行天皇時代で3世紀だから、

 もちろん九州政権時代で、

 九州の圏内で唯一イホキと読める地名の、

 熊本県の葦北郡がこの国造名に最もよく一致している。

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嶋津の庄(都城市)が旁国の斯馬国か?



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:21頁

 《嶋津の庄(都城市)が旁国の斯馬国か?
 「嶋津の庄(都城市)が旁国の斯馬国か?

 こうして志賀高穴穂朝が小国日本国の朝廷だったことが明確になると、

 そこで任命された「嶋津国造」は、

 三重県の志摩の領主であるはずがない。

 この山偏(やまへん)の嶋の字を使う嶋津氏は周知のとおり

 江戸時代以前から薩摩・大隅・日向三か国の大守である。

 その嶋津というのは、

 宮崎県都城市にあった

 嶋津の庄=現在の庄内町を中心にした一帯の8000町歩に及ぶ日本では

 他に例を見ない大な荘園の名で、

 11世紀のはじめ太宰の大監・平の季基と弟・判官良宗が

 整備して宇治関白・近衡頼通に賄賂として贈ったもので、

 のち鎌倉時代初期に、

 嶋津氏の初代忠久が1184年夏、

 源頼朝によって庄宮=管理者に任命され着任したことから、

 それを姓としたものである。

 「嶋津国造」は、小国・日本国時代の都城地区一帯の支配者で、

 そこが旁国筆頭の斯馬国だったと仮定すれば、

 それは都城市の古名だったことになる。

 またそこが斯馬国かどうかを別にすれば、

 成務時代より古い卑弥呼時代の旁国が、

 本州や四国にまで広がっていたことは絶対になく、

 それは九州内部にあったことが以上で確認できた。

 これで、こ

 の国造名と旁国名の比較検討は、

 少なくとも在来の本州説より、

 はるかに確実性の高い、

 真実の史実に近い答を教えてくれる事実が確認できたのである。

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天狗までが立証する大化大戦の史実



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:19~20頁

 《天狗までが立証する大化大戦の史実
 「天狗までが立証する大化大戦の史実

 この「鹿児之国(しま)」が

 後世にカゴシマと呼ばれるようになってから鹿児島と書かれ、

 千穂も狗奴国王・位宮らの都跡だから、

 高族を意味する「高」を冠して高千穂と呼ばれた。

 滋賀県の近江は、

 天智天皇が都を開いたとき以後のもので、

 鹿=志賀という地名も、

 そのキンコウの名と一緒に移動していることを忘れてはならない。
 
 比良も枚であり新羅である。

 このキンは沖縄語ではチン・ティンで、

 天智天皇の名乗り「天命開別」の天と同じもの。

 天は大天=ウチナー=沖縄。

 命は沖縄語でミー、これは旁国・弥奴国のミー。

 開はヒラキで枚開=ヒラキッ=新羅。

 別は沖縄発音ビチで、

 大隅語の日木=ビキ=ビコ=彦から変わった当て字である。

 「キン・コウ」とは、

 沖縄と高族という意味の大隅発音なのである。

 それは沖縄発音だと「ティン・グ」だから、

 「天狗」という当て字の正体なのだ。

 大津市坂本の日吉神社の主祭神は猿田彦の大神で、

 いうまでもなく天狗そのものである。

 この神は貝に殺されて乗船の柁(かじ)だけが

 鹿児島県加治木町へ戻り着き、芽がでて大木になった。

 だからカジが木になった町=加治木なのだという地名説話が
 
 『加治木故老物語』という文献に収録されている。

 これで鹿児島湾がなぜキンコウ湾なのかよくわかる。

 天智天皇の日本国がどこから畿内に攻めこんだかも、

 明瞭に眼に見えるようにおわかりのはずである。

 高族は中近東出身の鼻の高い人々で、

 沖縄経由でそのあと入ってきたギリシャ系の人々の濃厚な血も混じっていることは、

 度々お話しするがその町出身の大相撲の寺尾関吉永小百合さんの容貌や、

 その付近の出身のスターたちの顔立ちが充分立証している。

 天狗の面の容貌はインドネシア彫刻の大きな影響で、

 極端にデフォルメされ過ぎているが、

 それでもなお私たちの祖先の史実を伝え続けている証拠価値は高い。

 近江がオーミと発音されるのは、

 そこが天武天皇に占領されて天皇の本名である大海皇子の大海で呼ばれ、

 その発音が大海=オーミと呼ばれていたので

 「近江という漢字」にはそれまで全然なかった特殊な発音でオーミと

 発音されることになったのである。

 大海はオーアマとも読まれるが、

 それは淡=オー・オホ、海=ミ・アマと書かれ、

 天武天皇の直系である

 淡海三船(アフミノミフネ・オーミノミフネ)の新しい姓を

 生んだことでもわかるように、

 彼らの故郷=出身地が、神話の淡島、

 すなわち奄美大島だったことと、

 海の発音の「ウミ」は、

 沖縄語の「ウフ=大、ビー=水」が、

 大隅で「ウミ」と変化したもので、

 その水はインド語で「アクァ=アカ」と呼ばれて、

 南の色「赤」の日本語の発音と一致すること、

 その南をアカと発音することは、

 古代ギリシャの南方地域を

 アカイヤと呼んだことともまた一致する事実が、

 インド~アーリア語の移動と伝播の謎解きを、

 飛躍的に前進させた事実なども、

 この地名には大量に絡んでくるが、

 語源論に脱線するので割愛しよう。

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動かぬ証拠、7世紀まで日本国は小国



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:17~18頁

 《動かぬ証拠、7世紀まで日本国は小国
 「動かぬ証拠、7世紀まで日本国は小国

 旁国本州説がどう間違っていたかは、すでに明らかなのだから、

 在来の史観のままの地域だと信じるなら、

 当然この9朝、10天皇の政権の所在地も疑問に満ちている。

 『旧事本紀』は『先つ代の旧き事の本紀』という書き出しから、

 『先代旧事本紀』が正しいと主張する説もあり、また偽書説もあるが、

 完全に後世の作文だとわかる『記・紀』より人名などへの当て字が古く、

 また『記・紀』に現われない独自の人物が記録されているので、

 『記・紀』が書き替えたり、

 消してしまった史実を保存している可能性を考えると無視できない。

 こうした新たな観点で旁国名と国造の名乗りとを比較検討すれば、

 さらに明らかになることが多いはずである。

 1つずつみてみよう。

 1 斯馬  場津国造、志賀高穴穂朝

 この志賀高穴穂朝は景行天皇のときに都したと

 『日本書紀』に書いてあるから、

 その王孫である成務天皇まで続いた政権名だ。

 それなら動かぬ証拠があるから、答は簡単である。

 成務天皇は日本武尊の王子だが、

 父の日本武尊はその名乗りでわかるとおり、

 日本国の支配者である。

 その日本国は670年に、

 倭国が消えて日本になるまでは鹿児島県にあった小国にすぎなかった。

 『旧唐書』には大国倭国と対置して小国日本国が併記されているが、

 日本国は東西南北各数千里、

 西界南界みな大海にいたる。

 東界北界大山あり、限りとなす。

 と書いてある。
 
 これらの条件の全てが日本列島中ただ1か所、

 鹿児島県だけにぴったり一致する。

 それが7世紀までの日本国なのだから、

 3~4世紀の人である日本武尊は当然、

 鹿児島王だったのであり、

 彼は九州から外には出ていない。

 『記・紀』が描く彼の東征は、

 その小国日本周辺の事件で、

 それを『日本書紀』編纂時に拡大し、

 脚色したことは一目瞭然だ。

 その父の景行天皇から王子の成務天皇まで続いた志賀高穴穂朝は、

 鹿児島県以外にありようがない。

 志賀高穴穂というのは鹿児島県の中の地名に対する当て字なのである。

 その謎解きをしてみよう。

  志賀 = シカ = 鹿  高 = コ   穴 = ケチ   穂 = ホ
            鹿      児       ケ千   穂

 鹿児ケ千穂。

 穴をチだけの表音文字とみると

 鹿 高千穂になり、現在の鹿児島神宮の辺りが、

 古代の高千穂の宮跡だというのと、無関係だとは考えられない。
 
 そればかりか、

 景行天皇紀に書かれた「近江の国」と、

 鹿児島湾の別名「錦江湾」の名は「近江」と

 まったく同じ漢音で「キンコウ」だから近江と、

 錦江もまた、たんに当て字が違うだけなのである。

 この他にも大量にある証拠群で、

 志賀高穴穂朝が鹿児島県内にあったことは動かせない。

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『旧事本紀』国造本紀の王朝と所在地



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:15~16頁

 《『旧事本紀』国造本紀の王朝と所在地
 「『旧事本紀』国造本紀の王朝と所在地

 個々の国名を比較する前に、

 国造たちが任命された時の政権とされる「○○朝」とは何か、

 まとめて検討しておこう。

 A 橿原朝   (3人)          (本州説の所在地)

 『古事記』  神武天皇 畝火の白檮原の宮 (檮)古音タウ 切り株・悪い木のこと
 『日本書紀』      畝傍山の東南の橿原   奈良県橿原市

 B 瑞籬朝   (1人)

 『古事記』  崇神天皇 師木の水垣の宮     奈良県磯城郡
 『日本書紀』      磯城の瑞籬の宮

 C 纏向白代(まきむくひしろ)朝 (3人)

 『古事記』  景行天皇 纏向の日代の宮     奈良県磯城郡
 『日本書紀』      纏向の日代の宮

 D 志賀高穴穂朝 (12人)

 『古事記』  成務天皇 近淡海 志賀      滋賀県滋賀郡
 『日本書紀』 景行天皇 近江の国に幸し志賀に居すこと三歳、是を高穴穂宮という

 E 筑紫香椎朝  (1人)

 『古事記』  仲哀天皇 筑紫の訶志比の宮    福岡市東区香椎
 『日本書紀』      儺の県の橿目の宮

 F 神功后御代  (1人)

 『古事記』  神功皇后 ナシ
 『日本書紀』      磐余(いわれ)の若桜の宮 磐余(いわれ)は奈良県橿原市

 G 軽島豊明朝  (3人)

 『古事記』  応神天皇 軽島の明(あかる)の宮  奈良県高市郡
 『白本書紀』      明の宮

 H 難波高津朝  (1人)

 『古事記』  仁徳天皇 難波高津の宮      大阪市中央区高津
 『日本書紀』      難波高津の宮

 I 泊瀬朝倉朝  (1人)

 『古事記』  雄略天皇 長谷朝倉の宮      奈良県桜井市初瀬
 『日本書紀』      泊瀬朝倉の宮

 9天皇のときに任命されたと書いてある。

 それらの官名は都の所在地名であるが、

 在来の『記・紀』の解説者は、

 それを明治時代の解釈のまま、

 橿原・磐余(いわれ)は奈良県橿原市、

 纏向・瑞籬は奈良県磯城郡、

 志賀高穴穂は滋賀県滋賀郡、

 筑紫香椎は福岡市東区香椎、

 軽島明は奈良県高市郡、

 難波高津は大阪市中央区高津、

 泊瀬朝倉は奈良県桜井市初瀬だとしている。

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2012年5月24日木曜日

旁国と『旧事本紀』国造本紀との対比



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:13~14頁

 《旁国と『旧事本紀』国造本紀との対比
 「旁国と『旧事本紀』国造本紀との対比

 だがもう1つ、旁国と無関係ではないと考えられるものに、

 『先代旧事本紀』「国造本紀」中の初代国造任命記事がある。

 発音に共通点があるものを抜き出して対比しておこう。

 1 斯馬   嶋津国造、志賀高穴穂朝、出雲臣祖、佐比弥足尼孫。

 2 已百支  盧原国造、志賀高穴穂朝、池田坂井君若祖、吉備若武彦児。
 2 已百支  葦分国造、纏向日代朝、吉備都命児、三井根子命。
 2 己百支  親治国造、志賀高穴穂朝、呉都呂岐命児、比奈羅布命。
 2 巳百支  神野国造、瑞籬朝、神八井耳命孫、建五百建命。

 3 伊邪   伊勢国造、橿原朝、以 天降、天牟久慈命孫、天日鷲命。

 4 都支    高国造、l志賀高穴穂朝、弥都侶岐命孫、弥佐比命。

 5 弥奴   三野国造、軽島豊明朝、元封弟彦命。

 6 好古都  小市国造、軽島豊明朝、物部連同祖、大郷川命孫、子到命。

 7 不呼    穂国造、泊瀬朝倉朝、生江臣祖、葛城鶉津彦之命四世孫。菟上足尼。
 7 不呼    豊国造、志賀高穴穂朝、伊長国造同祖、宇那足尼。

 8 姐奴    都怒国造、難波高津朝、紀臣同祖、都怒足尼 男 嶋足尼。
 8 姐奴     和泉国造、元河内国、則改為国、元 珍努宮。

 9 対蘇    都佐国造、志賀高穴穂朝、長阿比古同祖、三島淵杭命九世孫、小立足尼。

 10 蘇奴   素賀国造、橿原朝、名美志印命。

 11 呼邑   加夜国造、軽島豊明朝、上道国造同祖、元封中彦命。

 12 華奴蘇奴 国前国造、志賀高穴穂朝、吉備臣同祖、吉備都命六世孫、午佐自命。

 13 鬼    甲斐国造、纏向日代朝世、狭穂彦王三世孫、臣知津彦公、此宇、塩海足尼。

 14 為吾   伊賀国造、志賀高穴穂朝、意知別命三世孫、武伊賀都別命。

 15 鬼奴   久努国造、筑紫香椎朝代、物部連祖、伊香色男命孫、印幡足尼。

 16 邪馬   薩摩国造、纏向日代朝、薩摩隼人等鎮之、仁徳朝代、曰佐 改 為 直。

 17 躬臣   高志国造、志賀高穴穂朝、阿閉臣祖、屋主思命三世孫、市入命。

 18 巴利   針間国造、志賀高穴穂朝、稲背入彦命孫、伊許自別命。

 19 支惟   紀伊国造、橿原朝、神皇産霊命五世孫、天道根命。

 20 烏奴   海上国造、志賀高穴穂朝、天穂日命八世孫、忍立化多比命。

 21 奴    怒麻国造、神功后御代、阿波国造同祖、飽速玉命三世孫、若弥尾命。
 21 奴     仲国造、志賀高穴穂朝、伊予国造同祖、建借馬命。

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伊都と斯馬=糸島説の壊滅ぶり



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:12頁

 《伊都と斯馬=糸島説の壊滅ぶり
 「伊都と斯馬=糸島説の壊滅ぶり

 この伊都国は、

 邪馬台国畿内説が陳寿の書く方角は間違っているといって、

 証拠に挙げてきた国である。

 そのとき彼等が挙げた伊都国は福岡県の糸島半島で、

 これが伊都と斯馬だとして、

 「それは末盧国(唐津)の東北にあるのに、

  陳寿は東南と書いているから90度狂っている。

  それを修正すれば南は東になる。

  だから邪馬台国は末盧の東にある大和が正しい」と主張し、

 それを定説として、

 以後いろいろな説を接ぎ合わせてきているのである。

 だが糸島なら船をつけて上陸できる。

 何もわざわ唐津に上陸して

 魏から運んできた百面もの銅鏡や大量の織物などの大変な重量物を

 担いで五百里も歩く必要はないし、

 その伊都から水行十日隆行一月するのだから、

 唐津に上陸して、改めて糸島から船出する必要はない。

 案内者は帯方から方向も距離も倭人章どおりに進んで、

 無事に末盧へ到着したよく慣れた優秀な航海者だ。

 大和へは壱岐から関門海峡を通過して瀬戸内海を進むのが常識だ。

 また旁国は「遠絶していて細部不明」とあるのに、

 その筆頭に挙げている斯馬国が伊都と隣りあった

 「最も近接している」糸島の志摩だと主張するような無茶な人々は、

 大切な思考機能に欠陥があることは確かで、

 幾ら努力しても理解させることは不可能である。

 私たちは無駄な説得や論争に時間を浪費せず、

 さらなる未解決問題に取り組まなければいけない。

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不合理に満ちた旁国本州説



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:8~11頁

 《不合理に満ちた旁国本州説
 「不合理に満ちた旁国本州説

 この地図をみると疑問が次々に湧いてくる。

 その主なものをあげてみよう。

 ① 国々が余りにもバラバラである

 原文には旁国を列挙した最後に

 「次 有 奴国 此 女王 境界 尽きる所。

  其 南 有 狗奴国 男子を王と為す 

  其 官 有 狗古智卑狗、不属 女王」と書いてある。

 これは旁国が一連の政治勢力圏を形成していたからこそ

 「狗奴国は境界外=勢力圏外にある」と、対比して書けるのだから、

 旁国は一丸となった女王国圏を構成していたことを証明している。

 ところが本州説の地図だと、

 その名が旁国名と共通する国々ははとんど隣接せず、

 あいだに「女王に属しない国々」が大量に挟まっている。

 それらの不属の国々は、敵または敵になる可能性のある国々なのだから、

 この本州に旁国があったとする説では、

 それらの国々は全然政治圏を形成していない。

 これでは属国だという記録に合わず、本州説は成立しない。

 ② 狗奴国以外の「不属 女王」の国々が大量にあり過ぎる

 でもムリに旁国だったと仮定してみても、それなら数多く隣接する、

 それらの大量にある「不属 女王」の国々をなぜ書かずに、

 たった1国だけ狗奴国だけを、わざわざ書いたのか?

 まるで理解も説明もできない結果におちいつてしまうのである。

 ③ そこは通過地や隣接国で、すこしも「遠絶」ではない

 それに都が奈良県にあったのなら、

 九鬼、宇野、播磨、加古、武庫、茅沼、久世、紀伊などは

 畿内説論者も認めている佐賀県松蒲郡の末盧国から

 伊都国(本州説では和歌山県伊都郡)を経て

 奈良の都までのコースの途中にあるか、

 都に隣接しているのだから「遠絶」などしていないし、

 通過地なのだから、対馬、一大、末盧などの国々同様、

 帯方郡使はその眼で見、

 その耳で聴くことができ、詳細が書けたはずである。

 それがナゼ?一言も書けないのか。

 ④ 議論する気にもなれない畿内説の伊都国のデタラメさ

 これは前に既に検討済みの

 「末盧国から東南五百里=30km弱」のところにあると記録された
 
 伊都国が、

 「末盧国の東北東約500km=約一万里」もあるところにある伊都郡のほうが

 「なぜ?正しいのか?」という、

 議論する気にもなれない畿内説論者への詰問でもある。

 ⑤ 旁国は邪馬壹国の存在しない卑弥呼政権時代のもの

 ここで、

 旁国は卑弥呼政権時代の記録だということを確認しておく必要がある。
 
 そこには、はっきり「狗奴国は不属女王」と書いてある。

 壹與政権は、

 敵国だったその狗奴国が卑弥呼政権を倒したあと新しく作った第2の女王国で、

 それが邪馬壹国という中央政権なのだから、

 いわゆるヤマトだという邪馬台国=邪馬壹国は、

 この旁国とは同時に存在しない。

 このことは「旁国はヤマト=邪馬台国とは,全然無関係だ」

 という動かぬ証拠なのである。

 ⑥ 国のサイズが巨大すぎる本州説の誤り

 また帯方郡使が記録した対馬国1000余戸、

 一大国3000ばかりの家、末盧国4000余戸というのは、

 だれがみても町村ていどの戸数の国ばかりなのに、

 旁国と同名の、この地図の国々をみると、

 大半が府県単位であって、

 戸数は少なく見積もっても10倍以上、100倍以上と考えられるものもある。

 ちなみに現代の人口をみてみると、

 対馬約5万人、壱岐約4万人、松浦郡約10万人で、

 古代の一戸を20人ぐらいとすれば、

 対馬約2万人、壱岐約6万人、松液郡も約8万人で、

 1700年も経過した大きな時代差のわりには、

 人口の変動が少ないことが立証できる。

 ところが本州説に合わせて作ったこの地図では、

 西からみていくと土佐の高知県80万人、

 讃岐の香川県約100万人、

 播磨の兵庫県約500万人、

 茅沼の大阪府約800万人、

 紀伊の和歌山県約100万人、

 伊勢の三重県約160万人、

 美濃の岐阜県約190万人などと、

 10倍から100倍単位である。

 時代差による人口増は明治初年でも

 全国で3千万人ていどだったものが1億数千万人に殖えても、

 結局は数培になったに過ぎない。

 3世紀に1千万人ていどだったとしても10数倍にすぎない。

 だから100倍単位というケタ違いの国の大きさは、

 これらは3世紀当時の旁国が人口が殖えたものではなく、

 後世に移動拡大したあとの国々だという動かない証拠で、

 3世紀の旁国が他の地域にあったことを立証している。

 ⑦ 戸数を特記しないことが本州説の誤りを証言している

 郡使は邪馬壹の7万戸がずば抜けて大きく、

 政権交替後の第二の奴国もまた2万戸と特記しているが、

 それなら1戸20人として140万人と40万人である。

 仮に旁国中に1万戸20万人もいる国があれば、

 それは倭人が必ず特別に教えたはずだ。

 だがそんな例は1つもなく、

 旁国はただ単に国名だけが記録された。

 その記録者は帯方郡からやってきた梯儁以外にはないが、

 彼は特記しないことで

 旁国が町村ていどの小国だったことを立証している。

 本州四国の府県単位の大国化した後身ではないと、

 明確に証言しているのである。

 ⑧ なんと!?

   首都・伊都国や敵国・狗奴国まで小国・鬼国の中に!?

 本州説にはさらに奇妙な珍現象がある。

 伊都国は「世々王有り、皆、統属女王国」と記録するので、

 卑弥呼の本領地女王国とは全く別の国だが、

 帯方郡使は2人とも伊都に駐在して以遠には

 進まなかったから、

 梯儁は伊都で卑弥呼に拝假して(面接して)

 魏の皇帝の詔書と親魏倭王の金印紫綬、

 百面の鏡以下の贈り物を規則どおりに手渡した。

 そのとき卑弥呼がいた伊都国こそ、

 卑弥呼を王として共立した倭人連邦の首都だったことが明瞭にわかる。

 また狗奴国は女王の勢力下に入らず、

 数年後には卑弥呼政権を滅亡させた敵国である。

 が、なんと!

 本州説は、町村ていどの国だった鬼国を和歌山県だと主張して、

 地図でご覧の通り、その首都国(伊都郡)と、

 敵国狗奴国(熊野)とをその鬼国の中に入れていのだ…!?。

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