2012年4月8日日曜日
ヤマトはバビロニヤの古代地名
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録09:25~26頁
《ヤマトはバビロニヤの古代地名》
「ヤマトはバビロニヤの古代地名」
これで3000年以上前の<縄文人>が、
現代人と余り差のない企業を営んでいたことがわかったと思う。
これまで教えられてきた
<縄文人>のイメージと余りにも違いすぎるとお思いではないだろうか。
でも彼らはなぜ?、
そんなにも高い文化をもっていたのだろう?。
私(加治木義博)の多くの論文や研究発表が新聞に掲載されたが、
それを読まれた倉敷市の藤原さんという方から、
タイ国の奥地にいる<カリエン人>が、
彼らの古代史の豊富な資料をもっているという情報を戴いた。
それから私(加治木義博)の、
一年半に13回という集中的なタイ奥地調査が始まった。
そして多くの方々のご協力のお陰で、
ついに<カリエン人の歴史>の全貌が明かになった。
簡単にお話しすると、
<カリエン人>の先祖は<ハムラビ法典>で有名な<バビロニヤ第一王朝人>だという。
だが、さらに掘り下げてみると、
より詳細にそのルーツの真相が明かになった。
一例をあげると、
<ハムラビ>は<ラルサ王>の本拠地「エラムのヤマトバル」で
<ラルサ王>・<リム・シン>を捕虜にし、
<アッシリア>の全土を征服合併して大統一帝国を作った。
この<ラルサ>の地名に注意がいる。
<エラムは永良部>と、
<ヤマトバルは大和原>と、
という沖縄~南九州型地名なのだ。
<バビロン人>よりも<ラルサ人>のほうが、
<カリエン人>の先祖として、
より相応(ふさわ)しい。
だがその<バビロニヤ>も、
<ハムラビ王>の時代を最盛期にやがて衰えはじめ、
5代、150年続いたが、
紀元前1530年に<カッシイト人>に敗れて滅亡し、
国民は難民となって大半が国外へ流失した。
また国外脱出しなかった人たちの子孫は、
のちに勢力を盛り返して<カルデア王国>をつくり、
<メソポタミヤ平原>の支配者に返り咲いた。
その子孫には今また衰えて迫害されている<クルド人>がいる。
こうした名前を比較してみると、
<カルデアンとカリエンは方言関係>にある。
また日本の代名詞のようにいわれてきた<ヤマト>という国号も、
現実には<古代バビロニヤ>からやってきた人々が、
移住とともに運んできた、
はるか西方の古い地名だったことがわかる。
しかし<ヤマト>という国名が正式に採用されたのは、
718年、<元正天皇>の養老2年に発布された
『養老律令』以後のことである。
だが752年=天平勝宝4年、
<孝嫌>天皇は奈良大仏の<開眼供養>に合わせて、
完全な仏教女王国復活を祈って国号をもとの<ウワ>に戻し、
それに「大和」という当て字を初めて採用した。
この<大和=ウワ>の文字が、
まるで無関係な発音の「ヤマト」とよまれるようになったのは、
<孝謙天皇>が<藤原の仲原呂>の推す<淳仁天皇>に譲位したが、
<橘の諸兄>(もろえ)や<藤原の仲原呂>らと激突したあと、
再び<称徳天皇>として重ねて即位したものの、
<弓削の道鏡>の事件で勢力を失い、
仏教国「大和=ウワ=倭」復活の夢は永遠に消え、
<光仁天皇>即位後は男帝国の「日本」が国号として定着し、
大和までが「ヤマト」とよまれることになづた。
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿