2012年4月17日火曜日
帯方郡の位置と視点の位置
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:7頁
《帯方郡の位置と視点の位置》
「帯方郡の位置と視点の位置」
郡使はそこから船で、先ず南に行き、
次ぎに東進して約7000里でについた。
狗邪韓国は現在の巨済島だと、
多くの考証結果から確定的にわかっているので、
すでに明らかな倭人里で巨済島から逆算すると、
出発地点は現在の
韓国全羅北道沃溝郡の
郡山(クンザン)市付近だということになる。
この市は、後世、百済大河として知られる
錦江(きんこう)の河口に近く、
現代も米の輸出で有名な韓国の重要港で、
韓国西海岸の中南部では第一の港湾都市である。
郡使を乗せた船は、
そこから南に向かったのだから、
そこが群の東南端だったとみると、
その北東部は帯状をした長方形の郡にぴったりの地形をしている。
倭はその郡の東南に位置する島だという。
横長長方形の帯方郡の東西の幅(距離)は300km近くあるから、
その左右で視点は300km近くズレる。
郡からという視点はさらに一層精密さが要求される。
郡使が群山付近から出発したことは、
郡役所が半島西部こあったことを示す、
その群山という地名は、
当時の半島が倭人圏だったことを考えると、
「郡の山」すなわち帯方郡の要地という地名であり、
それが後世、文字を変えた形になっている。
周辺には他にそれらしい地名がないから、
この出発点と地名の条件からみて郡役所が付近にあったことは間違いない。
唯一の当時の遺跡という点を重視すれば、
群山こそ郡政府所在地の第一候補である。
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