2012年4月18日水曜日

高度に正確だった魏の方位測定術



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録10:8~9頁

 《高度に正確だった魏の方位測定術
 「高度に正確だった魏の方位測定術

 人の視点は自分がいる位置を起点にする。

 またこの倭人章の記事は、

 全て報告書を写して編集したものだから、

 その報告書を受けとって読む上官や帯方郡太守らを意識して、

 彼等に最もわかりやすい視点で説明してある。

 そうするとそれはどこからみても郡庁のあった帯方郡の西側、

 その中でも一番可能性の高い、

 群山付近を視点にして書かれているはずだから、

 「郡の東南」というのは正確には「帯方郡庁の東南」で、

 それをより正確に位置を確定すると

 「現在の群山市の東南」という測量基点にまで絞りこむことができる。

 では群山から見て「東南」はどこに当たるか。

 地図をみるとそれは九州だけを指している。

 近畿なら「東」と指示すれば、ぴったりの位置にある。

 こんなに明確に位置を確定するのだから、

 文献記事の視点は重要で、

 必ず確定する必要があると痛感するのである。

 だが邪馬台国畿内説を無視せず、

 仮に奈良まで東南に入るとしてみよう。

 倭人章の記事は、

 邪馬壹国は今の佐賀県下にあった伊都国から見て、

 「南」にあったと書く。

 奈良はいうまでもなく佐賀県のはるか東にあって南にはないが、

 畿内説は

 「帯方郡使らは方角音痴だった。

  邪馬台国は伊都国の東にあったのに、南と勘違いした」

 と主張し続けてきた、

 これは郡使も案内者も、船員も全員、

 南と東の区別さえ知らない人々だったという説である。

 だが帯方郡使の書いた記事を読んで見ると、

 群山から出発後、

 まず「南へ」進み半島の西南端で方向を変えて

 「東へ」進んだと書いている。

 朝鮮半島の西海岸を南下すれば、

 西南端を迂回して東へ向かわないと、

 巨済島へは着けないから、決して方角音痴ではない。

 それ以後の航海も全て実際の地理に合った正確な方向を記録しているし、

 旅行記事以外の地理記事も、

 そのすべてが、「女王国の北」「その南に狗奴国あり」などと、

 一つも方角に狂いはない。

 第一、

 かりに方角が出鱈目だったのなら、

 帯方郡使たちは倭国へは着くことができず、

 この倭人章の報告記事など今まで残るはずがないのである。

 他の地理記事でも、

 女王国の所在を
 「會稽(中国淅江省)東治(とうち)(杭州湾岸にあった郡政府東部支庁所在地)の東」

 と書いているが、

 そこは北緯31度線付近。

 この緯度は日本列島では唯一、

 鹿児島県の南部を指していて、

 私たちがあらゆるデ-タを駆使して確認した正しい女王国の位置を、

 広大な東支那海を隔てているのに明確に指している。

 魏人はこれほど正確な地理学と、

 高度の測量枝術とをもっていたことがわかる。

 では奈良県が、

 女王国は 會稽 東治(とうち)の東にあるという限定条件に、

 合うか?みてみよう。

 奈良は北緯34度線の北にある。

 この線はかろうじて朝鮮半島の南端をかすめて、

 中国山東半島南端あたりに至り、

 會稽東治(とうち)とは距離にして約500km以上、

 大阪~鹿児島間の距離ほどもズレている。

 現代はもちろん、

 3世紀の科学でも大和説はダメだったのである。

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