2012年4月27日金曜日
「謎メーカー」は邪馬台国畿内説
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:18~19頁
《「謎メーカー」は邪馬台国畿内説》
「「謎メーカー」は邪馬台国畿内説」
この地理記事には、
大和説にとって、
さらにもう一つ致命的な動かぬ反証がある。
それは先にみた女王国から海を隔てて
1000余里東にある同種族の国という意味の
「倭種の国」の記事だ。
原文は
「女王国 東 渡海 千余里 復 有 国 皆 倭種」である。
念のため、近畿地方の地図を見て戴くといいが、
邪馬台国だといい続けている奈良市から明日香村へかけての地域の東は、
全て山地で、海は全くない。
そこにある笠置山地の向うにある県境を越えて、
三重県に入っても、
そこはまた伊賀の上野高原地帯で、
その東には一層高い布引山地が横たわっていて、
それからさらに20km以上も下って、やっと伊勢湾に出る。
ところが記事では
「女王国の東、千余里」離れた位置に国があるというのだから、
そこまでの間には、人の住む土地はないはずなのに、
奈良から東の山地には、
多数の都市や町村が散在しているのだから、
単に海がないだけではなく、この点も全然一致しない。
またさらに厳密に倭人里の
「海を渡る千里=約66km」を奈良を起点に計ると、
その間(あいだ)は逆に陸地で、
皮肉にも約千里のところで逆に海=伊勢湾になる。
だから3世紀の女王国は、
その東岸がその伊勢湾岸の津市まであったのだとみても、
東の海は知多半島にさえぎられて、
とても千里の幅はない。
無理に無理を重ねても説明不能の「謎」が山積するばかりだ。
中国では3200年も昔の殷(イン)の時代に、
すでに十二支が使われていた。
日本人はエトといえば生まれ年を示す符号だとしか思っていないが、
それは方位をトーテム動物で表現した方角の名なのである。
その動物が十二種あることでおわかりのように、
それは時計の文字盤の数字と同じ間隔で方角を分割して示したもので、
単に東西南北だけでなく、
辰巳といえば南東のことといったふうに、
方位を科学的に細分して、動物名で表現したものである。
それから1500年後の中国人である帯方郡使が、
南と東を間違えたという発想そのものが、
余りにも無知で幼稚すぎるということは、重ねていうまでもないと思う。
この方位誤解の中でも最悪の例は「昔の人々が方角に無知だった証拠だ」と、
日本列島が南北逆になった地図
(『混一疆理(きょうり)歴代国都之図』1402年・朝鮮製)を
もち出した者たちだ。
だがそれは古代中国人の方位常識を知っている者には、
朝鮮人の地図作者と、
それを今ごろ提出した者たちがいかに無知かを立証するだけで、
帯方郡使が方向音痴だ。
という立証には全然役立たない。
帯方郡使らが方角に無知だったと立証するには、
郡使が書いた方位記事の欠陥を指摘する以外に、
立証方法はないということを、
はっきり認致しておいてほしい。
だがそれが仮にできたとしても、
これまで見てきた地理学上の数々の矛盾点についても、
それぞれの分野で理性的な反証を挙げて、
自説の正しさを何人にも理解、
納得させなければならない。
だがすでにみたように、
それは絶対に不可能で、
逆転できる余地は全くない。
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2012年4月26日木曜日
怠け者の自己顕示欲は悲劇に終わる
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:17頁
《怠け者の自己顕示欲は悲劇に終わる》
「怠け者の自己顕示欲は悲劇に終わる」
魏人が、
女王国の所在地=視点=首都を「鹿児島県南部」と詳細に指摘しても
何の不思議もない。
その魏人の中でも秀才を選んで任命する役人の中から、
さらに選抜されて、
重大な任務を完全に果たし、
現代にまで名を残した帯方郡使たちが、
小学生でも間違うことのない東西南北を知らずに
「東を南と書いたのだ」と主張し続けて恥ずかしいとも思わない
「邪馬台国・大和説・畿内説」の
日本人学者たちが、余りにも国辱的なのだ。
またさきにお話しした
「會稽東冶(トウヤ)の東」と信じている誤解者も、
それが本州を指していると思い込んでいて平気だが、
魏人らの正確な方位知識では、
その東には日本列島などない。
誤解者らは、自分が主張していることが何かさえ、
気付いていないのである。
彼等の欠陥は万事いい加減なことで、
それは怠け者のせいで、
それなのに目立ちたがり屋なことである。
自己顕示欲は別に悪いことではないが、
軽蔑されるために議論するのは余りにも無駄であり、
顕示欲を満足させる利己的な目的のために、
日本の未来に大きく影響する建国問題を議論するには、
余りにも能力と学力が不足していて国家的にも迷惑である。
同じようなことを、
「邪馬台国論争」以外にも様々な分野で見掛けるが、
評論や学説の発表には、
とくに充分な検討を重ねに重ねた後にしたほうが、
汚名を後に残さなくていいと思う。
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2012年4月25日水曜日
古代中国人の地球測量科学の凄さ
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:16頁
《古代中国人の地球測量科学の凄さ》
「古代中国人の地球測量科学の凄さ」
魏代の中国人は高度に科学的な方位知識をもっていた。
ところがその知識はすでに紀元前12世紀を超える殷代に、
殷の首都(今の河南省安陽県・殷墟)と、
日本の茨城県稲敷郡とを結ぶ直線を、
正確に測量していた事実が完全に立証されている程のものなのである。
なぜそれがわかるかといえば、
この2点は正確に北緯36度線上に並んでいて、
その距離が2200kmきっかりある。
稲敷は殷墟の真東にある。
太陽の昇る所ともいうことになるが、
そこは「ヒタチの国」と呼ばれた。
なぜか常陸という字が当てられているが、
県内に日立市があるから、
やはり「日立ち=日が出発するところ」というのが語源なのだ。
それはいうまでもなく殷の王室からみて太陽が昇る東極という意味で、
稲敷が聖地だったのであり、稲敷という地名は、「殷(イナ)の儀式(シキ)場」を意味している。
しかも稲敷の福田貝塚から出土した縄文土器の人面注口器と、
殷墟から出土した青銅製の人面注口器(米国ワシントンのフリア美術館所蔵品)とは、
全く同じ信仰対象としての共通点を25以上も持つ。
測量だけに絞ってみても、当時の人々が、
海を超えて遥か彼方にある地点を2200kmきっかりに測量して首都と聖地を
置くことができたのだ。
だから千数百年後の魏人なら当然、
より一層高度な方位知識を持っていたのである。
(詳細は私(加治木義博)者『日本人のルーツ』参照)
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2012年4月24日火曜日
帯方郡使は人類学の凄い学識の持ち主
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:15頁
《帯方郡使は人類学の凄い学識の持ち主》
「帯方郡使は人類学の凄い学識の持ち主」
魏書倭人章は、
この夏人と倭人の共通点を見抜いていて、ピタリと指摘してみせている。
この事実も、魏人のもっていた人種学知識が現代以上に優れていて、
倭人らの服装、習慣を一見しただけで、
ぴたりとそのルーツを見抜いてしまったのである。
帯方群使らの学識の高さは、
この一事だけでも身にしみてわかるはずである。
彼等は、現在の日本の人類学者でも気付かなかった関連を、
即座に指摘できるだけの学識を身につけてもいたのである。
当時の中国人が、当時としては遥かな辺地だった日本列島人のルーツや実体を、
今の私たちが考えもしない黒歯国などまで細かに同族と認めて、
わざわざ記入するほどに熟知していたという事実を、
改めてしっかり確認しておく必要がある。
ついでにここで、黒歯国は本当に倭人と同種だったのか?みてみよう。
歯の黒い人々は、現在も台湾以南の各国で沢山みることができる。
それは一種の嗜好風習の結果である。
コショウ科のキンマの葉で、
ビロウ椰子の実と石灰を包んで噛む習慣のため、
歯が真っ黒に染まるのである。
その主流はインドネシア系の人々で、
日本語の主流もマレー語だし、
黒い歯のを美として喜ぶ奇妙な風習は、
「お歯黒」として今でも映画の時代劇などでみることがあるし、
お歯黒をした人は昭和初期まで残っていた。
これが答えである。
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2012年4月23日月曜日
夏王朝はカルデア人王朝
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:14頁
《夏王朝はカルデア人王朝》
「夏王朝はカルデア人王朝」
カリエン人がバビロンの崩壊で東方大移動をした
旧カルデア人だったことを、
タイに非難移住していたミャンマー国籍のカリエン人の指導者から直接聞き、
また13次にわたる現地調査で、
彼等の全てを確かめたことを、著書などでお話ししてきたが、
私たちの本領である言語復原史学なら、
それが真実であることと、
カリエン人と夏人と倭人との血縁の強さ深さなどを、
さらに協力に印象的に立証することができる。
今の北京語は旧満州=中国東北部にいた金人が、
明朝を滅ぼして清帝国を樹立したために現在も中国の標準語になっているが、
金人はもともと奄美・沖縄の南島人の子孫で、
ペキン語の発音にも南島発音が多くの影響を与えているし、
清の皇帝がもつ愛親(アイチン)という姓が、
南九州方言で「愛知の」を意味することなども、
重ねて立証している。
清(シン)も金も沖縄発音で「チン」、ウチナー(沖縄)も
「大チン国=大天国=天竺」で、みな同じ国名である。
そのペキン語では「人」を「リェン」と発音するから、
夏人もカリェンである。
南九州方言ではラ行音はザ行音になり、
拗音は消えるから、カリェンはカジエンになり、
沖縄ではカージエンになるから、
その原音はカルヂアンだったことが突き止められた。
中国初代王朝はカルデア人から始まり、
私たちとも近縁の血を分けた兄弟だったのである。
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2012年4月22日日曜日
夏后国の実在とカリエン人
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:13頁
《夏后国の実在とカリエン人》
「夏后国の実在とカリエン人」
倭人の中核をカリエン人が占めていた事実は、
こうして疑う余地がないが、
実は倭人章は、
さらにそれ以上に凄い史実を、エピソードめいた形でさらりと語っている。
それはこれまで陳寿の想像説と誤解されていたから、
大した話題にもならなかったが、
当時の中国人の知識の凄さを知ってから見直すと、
この一節は中国建国当時の人類学上の疑問を一掃する巨大な指摘だっためである。
そしてその真相は我々より、
むしろ中国人にとって、激しいショックを与えるものになる。
原文は次の通り。
「夏后少康之子 封 於 会稽 断髪 文身 以 避 蛟龍之害
今 倭水人 好 沈没 捕 魚蛤 文身 亦以 厭 大魚 水禽」
夏王朝は戦後に遺跡が次々に見つかるまでは、
伝説上の王朝だとされてきたが、
『史記』その他には、かなり詳しくその歴史が記録されている。
それによると、
その国は「夏后」という国名で、
第3代王の太康のとき東夷に攻められて敗れ、
少康の父・相は同族の間を次々逃げ回ったが遂に殺された。
その妻は逃げて生家に舟ったあと出産して少康を生む。
少康は40年後に夏を再興して第6代の王になり、
王子を夏后国の建国者である
初代・禹(う)王の墓のある会稽の王に封じたところ、
新王は頭髪を短く刈り、入れ墨をした。
それは潜水して漁をするとき、
海の怪物から身を守るという習俗だが、
倭人も同じ考えと習俗をもっている。
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2012年4月20日金曜日
倭のサイズを知り尽くしていた魏人
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:11頁
《倭のサイズを知り尽くしていた魏人》
「倭のサイズを知り尽くしていた魏人」
まだある。
『魏人章』には「自 郡 至 女王国 萬二千余里」と、
わざわざ書き加えてある。
これを計算してみると、
帯方郡から狗邪韓国まで7000余里そこから末盧国までが3000余里も
そこから伊都国までが500里で、計10500余里。
萬二千余里との差は1500余里しかない。
伊都国から1500里で女王国に着くと教えているのである。
それを倭人里で換算してみると、
熊本県八代市あたりまでの距離である。
もちろんそこが女王国の中心だというのではなく、
女王国の国境までの最短距離である。
また他にも「参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋 可 五千余里」と
「倭地」のサイズも書いてある。
この倭地とは、どこからどこまでを指すのか考えてみると、
伊都国から1500里以上も離れている女王国から、
さらに4000余里も離れている侏儒国や、
船で一年もかかる遠方の裸国や黒歯国は、
この中には絶対に含まれていない。
これはそうした島国を除外した倭の本体部分を指しているから、
この文章は対馬から女王国までの4000里に、
もう1000里を足したもので、
それに該当する地域は
南九州の島々=狗奴国などまでの距離だということになる。
女王国が、
八代市から台湾北端近くまでの広大な広がりをもっていたとは書いてない。
対馬から5000里どまりなのである。
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2012年4月19日木曜日
東冶(や)は絶対に間違い。東治(ち)が正しい
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:10頁
《東冶(や)は絶対に間違い。東治(ち)が正しい》
「東冶(や)は絶対に間違い。東治(ち)が正しい」
この記事は古来もう一つ論争点をもっていた。
それは「會稽東治(とうち)の東」を
「會稽東冶(とうや)の東」と誤解していたことである。
これは「治」と「冶」という文字の「篇(へん)」が、
三水(さんずい)か二水(にすい)かという点一個の差なので、
「古文献類は写し間違いや、虫食いや、染み汚れなどによって読めなくなる」
という多数の事例が災いして、いまだに決着がつかない問題とされてきた。
だがこれは、
文字の問題として論争すること自体が問題なのであって、
それは問題の本質を見抜けずにいたからに他(ほか)ならない。
この問題が東治(とうち)と東冶(とうや)が指す地域のどちらが
地理学的に合理的か不合理かで、
簡単に勝敗が決まる性質のものでしかない。
東冶(とうや)はいまの中国福建省閩侯(ミンコウ)県福州の古名で、
台湾の北端から西北約260kmの台湾海峡寄りにある港湾都市である。
こちらが正しいとすれば、
會稽の東は鹿児島県南部なのだから、
そこから南へ台湾の北端近くまでと限定される地域は
疑いもなく沖縄、南西諸島一帯である。
これならまさに「邪馬台国琉球説」だが、
この説には幾つもの決定的欠陥がある。
それは女王国の南端・奴国を
沖縄の那覇市とみても南にあるはずの狗奴国が存在しないし、
伊都国に合う糸満はあるが南北関係が逆。
道程も、最大の沖縄本島でも陸行一月もわざわざ歩く必要がない。
またそんな所にいてはとても連邦全体を統治できないからである。
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2012年4月18日水曜日
高度に正確だった魏の方位測定術
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:8~9頁
《高度に正確だった魏の方位測定術》
「高度に正確だった魏の方位測定術」
人の視点は自分がいる位置を起点にする。
またこの倭人章の記事は、
全て報告書を写して編集したものだから、
その報告書を受けとって読む上官や帯方郡太守らを意識して、
彼等に最もわかりやすい視点で説明してある。
そうするとそれはどこからみても郡庁のあった帯方郡の西側、
その中でも一番可能性の高い、
群山付近を視点にして書かれているはずだから、
「郡の東南」というのは正確には「帯方郡庁の東南」で、
それをより正確に位置を確定すると
「現在の群山市の東南」という測量基点にまで絞りこむことができる。
では群山から見て「東南」はどこに当たるか。
地図をみるとそれは九州だけを指している。
近畿なら「東」と指示すれば、ぴったりの位置にある。
こんなに明確に位置を確定するのだから、
文献記事の視点は重要で、
必ず確定する必要があると痛感するのである。
だが邪馬台国畿内説を無視せず、
仮に奈良まで東南に入るとしてみよう。
倭人章の記事は、
邪馬壹国は今の佐賀県下にあった伊都国から見て、
「南」にあったと書く。
奈良はいうまでもなく佐賀県のはるか東にあって南にはないが、
畿内説は
「帯方郡使らは方角音痴だった。
邪馬台国は伊都国の東にあったのに、南と勘違いした」
と主張し続けてきた、
これは郡使も案内者も、船員も全員、
南と東の区別さえ知らない人々だったという説である。
だが帯方郡使の書いた記事を読んで見ると、
群山から出発後、
まず「南へ」進み半島の西南端で方向を変えて
「東へ」進んだと書いている。
朝鮮半島の西海岸を南下すれば、
西南端を迂回して東へ向かわないと、
巨済島へは着けないから、決して方角音痴ではない。
それ以後の航海も全て実際の地理に合った正確な方向を記録しているし、
旅行記事以外の地理記事も、
そのすべてが、「女王国の北」「その南に狗奴国あり」などと、
一つも方角に狂いはない。
第一、
かりに方角が出鱈目だったのなら、
帯方郡使たちは倭国へは着くことができず、
この倭人章の報告記事など今まで残るはずがないのである。
他の地理記事でも、
女王国の所在を
「會稽(中国淅江省)東治(とうち)(杭州湾岸にあった郡政府東部支庁所在地)の東」
と書いているが、
そこは北緯31度線付近。
この緯度は日本列島では唯一、
鹿児島県の南部を指していて、
私たちがあらゆるデ-タを駆使して確認した正しい女王国の位置を、
広大な東支那海を隔てているのに明確に指している。
魏人はこれほど正確な地理学と、
高度の測量枝術とをもっていたことがわかる。
では奈良県が、
女王国は 會稽 東治(とうち)の東にあるという限定条件に、
合うか?みてみよう。
奈良は北緯34度線の北にある。
この線はかろうじて朝鮮半島の南端をかすめて、
中国山東半島南端あたりに至り、
會稽東治(とうち)とは距離にして約500km以上、
大阪~鹿児島間の距離ほどもズレている。
現代はもちろん、
3世紀の科学でも大和説はダメだったのである。
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2012年4月17日火曜日
帯方郡の位置と視点の位置
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:7頁
《帯方郡の位置と視点の位置》
「帯方郡の位置と視点の位置」
郡使はそこから船で、先ず南に行き、
次ぎに東進して約7000里でについた。
狗邪韓国は現在の巨済島だと、
多くの考証結果から確定的にわかっているので、
すでに明らかな倭人里で巨済島から逆算すると、
出発地点は現在の
韓国全羅北道沃溝郡の
郡山(クンザン)市付近だということになる。
この市は、後世、百済大河として知られる
錦江(きんこう)の河口に近く、
現代も米の輸出で有名な韓国の重要港で、
韓国西海岸の中南部では第一の港湾都市である。
郡使を乗せた船は、
そこから南に向かったのだから、
そこが群の東南端だったとみると、
その北東部は帯状をした長方形の郡にぴったりの地形をしている。
倭はその郡の東南に位置する島だという。
横長長方形の帯方郡の東西の幅(距離)は300km近くあるから、
その左右で視点は300km近くズレる。
郡からという視点はさらに一層精密さが要求される。
郡使が群山付近から出発したことは、
郡役所が半島西部こあったことを示す、
その群山という地名は、
当時の半島が倭人圏だったことを考えると、
「郡の山」すなわち帯方郡の要地という地名であり、
それが後世、文字を変えた形になっている。
周辺には他にそれらしい地名がないから、
この出発点と地名の条件からみて郡役所が付近にあったことは間違いない。
唯一の当時の遺跡という点を重視すれば、
群山こそ郡政府所在地の第一候補である。
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2012年4月16日月曜日
地理学の視点でみた倭人の世界
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:6頁
《地理学の視点でみた倭人の世界》
「地理学の視点でみた倭人の世界」
「倭人」とは人種名ではなく、
列記されている30の雑多な国々や、
女王に所属しない狗奴国などを総称する連邦名としての「倭国」と、
海を隔てて1000余里東に住む同種族という意味の「倭種の国」また
南方4000余里にある侏儒国、またその東南に住む
裸国、果歯国の国民などを、ひっくるめて呼んだ総称である。
これで「倭人」の意味、政権の性質・規模、その地理範囲、他の地域との頼互地理関係、
その人種関係と中国人の人種観などが概略ではあるがはっきりした。
これは政治学・地理学・人種学に大別できるので、
それらの専門知識でみると、
さらに詳細な答えが得られる。
次は地理学の視点で、この倭人の世界をより正確にとらえてみよう。
全記事の起点になっているのは「帯方」である。
この郡は、前漢時代に朝鮮半島に同名の郡が置かれ、
次いで公孫氏が領有し、
さらに魏が公孫政権を滅亡させて奪った魏の新領土で、
その郡名は
「朝鮮半島を帯状に切って四角形になった郡」
という形容詞でできているから、
それは輪郭が歪んだ朝鮮半島の北部や南部ではなく、
東西両岸が比較的平行している中南部にあったことがわかる。
それがどこだったかも、
この帯方から使者が倭の伊都国まで行った道程の詳細な記録があるから、
それで充分正確に算出できる。
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2012年4月15日日曜日
明確に「倭は連邦」と決定
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:5頁
《明確に「倭は連邦」と決定》
「明確に「倭は連邦」と決定」
魏書には
「烏丸」
「鮮卑」
「東夷」
という3つの「章」があり、
「東夷」の一族には
夫余
高句麗
東沃狙
悒婁
歳
韓
倭人
という7つの政権があって、
当時の中国人からみれば倭人とは、
ご覧のとおり-番最後に書かれた「最涯(さいは)ての政権」だった。
倭人記事は、
『陳寿の魏書の中の東夷伝中の倭人という一章』なので、
短く表記しても『陳寿偏=魏書・東夷伝・倭人章』であって、さらに短く略称しても、
『魏書・倭人章(ギゥェイショ・ウワイジン・ショウ)』でなければならない。
過去の史学の未発達、低迷は、
こうした呼び名一つにも歴然と暴露していて、
お恥ずかしい限りである。
では「倭人」とは単なる政権名か?…
それから考えてみなければならない。
その冒頭には、
当時朝鮮半島にあった帯方郡の東南に位置する島国で、
山や島で生活している小国が、
もとは100余国に分かれていて、
後漢代には使者を寄越した国もあり、
いまは通訳を連れた使者が往来する国が30カ国ある。
と、その主要部の地理条件や政権の概要が書いてある。
特に見落としてはならないのは、
倭人政権は一つの国ではなく、
もとは100以上の国に分かれていたし、
魏に使節を送った国も30国ある複数の国で構成されているという記事で、
それはきっぱり明確に
「倭は連邦である」と決定し報告していて、
疑問の余地がない。
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2012年4月14日土曜日
魏志倭人伝『ギシワジンデン』という文献は実在しない
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録10:3~4頁
『魏志倭人伝『ギシワジンデン』という文献は実在しない』
「魏志倭人伝『ギシワジンデン』という文献は実在しない」
漢文は、部分だけを読んだだけで、
わかったつもりでいては駄目で、全体を読んだ上で、
各部分に省略されている言葉を加えると、
筆者がその部分でいいたいことが了解できるが、
それにさらに、当時の人なら書かなくても誰でも知っているから、
わざわざ書く必要のなかった「常識」を、
加えて読む必要がある場合もある。
これだけのことをしなければ、
その筆者が伝えたい内容は把握できない。
これが漢文を読む最小限の心得である。
今回は、
これまで『謎』とされてきたものが、
少しも謎などではないという事実を、
すでに馴染みの深い『魏志倭人伝』を題材に使って、
実例でご覧にいれようと思うが、
そのためには、従来『魏志倭人伝』と呼ばれてきたこの文献が、
どういう筆者によって書かれた、どういう性質の文献なのか、面倒がらずに、
それから検討し直さなければならない。
まず『魏志倭人伝』という、その名が適当か、考える必要がある。
それはこの5字の中にだけでも、
すでに多くの誤りを含んでいるからである。
あなたはすでに、「倭」が「ワ」でなく、
「ウワイ」が正しいことをよくご存じだが、
残る「魏」も正しくは「ギゥェイ」だから、
仮にこの5字を使い続けるなら、
『ギゥェイシ・ウワイジン・デン」としか発音できないことは、
すぐご理解戴けたと思う。
しかし
『魏志』とは、
実際には『三国志』という文献も『魏志』という文献もないのに、
後世の中国の出版者が、
勝手に陳寿の著書3冊を合わせて『三国志』としたため、
『魏志』
『呉志』
『蜀志』などという、
全く別の書名が発生したものにすぎない。
そんなことはまるで知らず、
また同じ文字でも漢字の発音が中国中央政権の興亡によって、
時代によって大きく変化したことも知らなかった
日本の江戸時代人=元禄ごろの
松下見林や新井白石らがそれを
『魏志(ぎし)』という
文献だと信じて使ったのだが、
それに加えて
18世紀末の本居宣長らが、
彼らの浅い知識だけで安易につけて呼んだ
『倭人伝わじんでん』という名も、
実態は素人がつけた仮名(かめい)か仇名(あだな)にすぎないものである。
このあたりではっきり是正しないと、
やがては無学を宣伝する標識になりかねない。
この通称『魏志倭人伝』は、
三国時代には魏の仇敵国「蜀」の役人だったが「晋」の中国統一後、
その晋の著作郎(歴史編纂係員)になった陳寿が、
280年前後に古文献を集めて編集し『魏書』と名づけた本の中の
「巻三十」「東夷」の最後にある小さな一章である。
この分類単位としての「伝」は、
その「東夷」という集団の見出しにつけられた、
人間でいえば「姓」にあたるものである。
東夷章中の小部分にすぎない「倭人」も「伝」と呼んだのでは
「東夷伝・倭人伝」という奇妙な併記になって、
姓と名として区別したものが、
何のことか?さっばりわからなくなっている。
これが哀れな現状なのである。
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