2014年3月8日土曜日

いま我が建国史の重要史料になった『三国史記』


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:20頁

 新羅35代・景徳王記を読むと、

 その12年(742~765)、

 日本の国使が来たが傲慢無礼(ごうまん・ぶれい)な態度だったので、

 景徳王は会わなかったという記事がある。

 これは753年のことだから、

 天武天皇の壬申(じんしん)の乱:乙巳の変(672年)から80年たっていたが、

 日本の使者は新羅王が知事だったことや

 壬申(じんしん)の乱の敗北者だったことをよく知っていた。

 それが態度に現われていたので、会わなかったばかりか、

 それが原因で、倭国時代の遺物である地名まで全面改定して、

 鬱憤(うっぷん)を晴らしたのである。

 ところが『三国史記』は改名以前の地名を記録している。

 それをみると倭国時代の地名が日本語だったとよくわかるので、

 景徳王は逆に歴史の真相を裏書きした結果になっている。

 新羅が太古からの独立国だったのなら、

 何も地名を変更する必要はなく、

 反対に尊重するし、

 もとの高句麗や百済の地名まで変える必要など、

 あるはずがないからである。

 これを一つだけ見ても、新羅独立以前は、

 半島が倭国の領土だったことは動かない。

 またこのことは新羅国起源を書く神話が、

 半島のものではなかったことも教えてくれた。

 そこにある地名が南九州のものだということは本書でもお話ししたが、

 荒唐無稽(こうとうむけい)にみえる詰もよく検討すれば史実につながる。

 この意味で『三国史記』は朝鮮半島史はもちろんだが、

 我が国の建国史にとっても、

 今、重要で有力な史料に変身したことをよくご認識戴きたい。

 《いま我が建国史の重要史料になった『三国史記』
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