2014年3月29日土曜日
帯方郡使の出発点。帯方郡治の位置
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録34:11頁
するとここで初めて、
帯方郡使が出発した帯方郡の役所の所在地、
いわゆる「帯方郡治(ち)」はどこにあったか、
という謎が解け始める。
それは半島南半を治め、
同時に魏との往来にも便利な場所でなければならない。
車馬が少なく、陸行の困難な時代だから、
半島の中央部でもだめ、東でもだめ、南半の中心に近く、
西の海に出られる港でなければならない。
なぜ港だとわかるか、それは帯方郡使の出発点を、
ただ「郡より倭に至る」と書くだけで、
「郡からどこの港へいって、そこから船出して…」と
断らないから、郡(郡治=郡役所の所在地)が出発点で、
そこが港でもあったとわかるからである。
ではそれはどこだったのだろう?。
郡の都だったのだから、
地名にもそれが残るはずである。
上記の条件に完全に合う地域に「群山」がある。
群の字が違うが、
そこは海岸で山の群れなどありはしないから、
当て字にきまっている。
とすれば群は郡の名残(なごり)、
山は権力の中心「本山(ほんざん)」とみると、
かつての帯方郡治(ち)の遺跡になる。
そこは大河。
「錦江」の河口にあり、
鹿児島湾の別名「錦江(きんこう)湾」
との密接な繋(つな)がりを語っている。
そこは後(のち)の半島百済喪失の舞台、
架空の白村江とされた場所でもあり、
その北の背後地に半島百済の首都で王陵のある扶余(フヨ)がある。
南の背後地には大屯山国立公庫地域があって
公孫康の屯有県帯方郡を思い起こさせる。
これ以上の帯方郡治候補地はない。
《帯方郡使の出発点。帯方郡治の位置》
「帯方郡使の出発点。帯方郡治の位置」
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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
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