2014年3月13日木曜日

奈良への東征と時期を証言する倭の五王史


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:25頁

 しかし念をいれて視点を変えて、

 すでに確定している倭の五王の史実でも検討してみよう。

 まだかなりの人が信じているように、

 卑弥呼政権が3世紀に奈良にあったのなら、

 5世紀の倭の「国生み」は

 奈良から出発して西へ向かって進行したことになるから、

 五王の名乗りは

 「武=高市・奈良県」

 「興=河内・大阪府」

 「済=倭済(イズミ)=泉州(イズミ)・大阪府」

 「珍=泉州・大阪府と紀州・和歌山県」

 「讃=讃岐・香川県」の順でなければならない。

 ところが、史実はその正反対、

 まだ四国の名乗り

 「大雀(オオサザキ)=阿波(オオ)・讃岐(サザキ)=仁徳天皇」しか持たない

 倭王・讃が最も古く、

 イサナキ(「伊耶木(イザナキ)」)の名乗りをもつ履中=倭王・珍が、

 初めて大阪湾を越えて近畿に入った、

 という名乗りを持っていて、

 全てが「国生み」と呼ぶに相応(ふさわ)しい記録を完備している。

 そして以後の済・興・武の名乗りも、

 現存する地名と完全に一致して、

 倭王たちの初めての奈良への侵入と支配の開始が、

 武が宋に上表したき世紀末の478年当時だったことを、

 寸分の疑問点も残さず明白に記録している。

 だから卑弥呼を奈良の女王だと主張する者たちは、

 以上の倭の五王の記録を否定し、

 大阪湾国生みを抹殺するだけの論拠を明示して、

 私たちを納得させなければならない所まできている。

 我が国の史実は在来の学者が漠然と妄想していたような、

 曖昧(あいまい)なものではなかったのである。

 《奈良への東征と時期を証言する倭の五王史
 「奈良への東征と時期を証言する倭の五王史

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 《参考:年表・資料》 

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