2014年3月5日水曜日
侵略ではなく内戦だった神功皇后の『三韓征伐』
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録33:17頁
ではそのヒラ・シラの国はどこから来たのであろう?。
それがテラの語源「平良(ヒラら)=ヒラ国(ら)」である。
宮古島から南種子島の平山へ、
それが島内に拡大したあと種子島と分離して、
薩摩富士・開聞岳を象徴とする枚聞に移った。
以後シラシジ・シラギとして拡大する。
『魏書東夷・韓章』では、半島シラギは「辰韓」である。
大移動した人々が種子島出身で、
白日・新羅の国名が後世のものだとわかる。
また本来は西の国だったのが東に変わっている。
これは明かに争いがあって辰韓が敗れたことを意味している。
『記・紀』が書く壹與=神功皇后の「三韓征伐」は
史実を記録したものだったのである。
但しそれは従来の錯覚のような
「日本軍による朝鮮侵略」ではない。
その時の三韓は鹿児島県下にあった。
その時の新羅は開聞(ヒラギッ)で、
王がかご籠坂(カゴサカ)王=鹿児・繹迦(シヤカ)の王。
もう一人が忍熊(オシクマ)王=大隅(百済(ホスミ))と球磨(クマ)
高麗(クマ))の王の「三韓」の王だった。
いうまでもなくこれは壹與と位宮が
卑弥呼政権打倒に攻め込んだ時のもので、
その時13才の壹與は卑弥呼を継ぐ仏教(繹迦)女王になった。
もちろん鹿児・繹迦王の地位を継いで
開聞=新羅の王になったのだから、
その後、北部九州に遠征して福岡に移ったために、
そこが開聞=白日=新羅と呼ばれたのである。
その結果、半島側にある辰韓も、
当然、ヒラギ・シラギと呼ばれることになったのだった。
《侵略ではなく内戦だった神功皇后の『三韓征伐』》
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