2014年3月4日火曜日
九州が南鮮へ拡大した明瞭な証拠群
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録33:16頁
またカラと読む韓国(カラぐに)が
姶良(カラぐに)郡(今の鹿児島県姶良(あいら)郡)のことだったことも、
霧島山塊最高峰が
韓国見岳(カラぐにみだけ)の名を今に残す
事実などでご承知の通りである。
またB.C.E.194年に、
衛満(エイマン)にダマされた箕子(キし)朝鮮王の準が、
「海を渡って南に逃げた先」が韓だった。
半島から南に海を渡ればそこには九州しかない。
韓国はどこからみても九州の一部にあったのである。
このことは「四神」から生まれた国名も証明している。
東が青竜で、青はオオ=淡、竜は辰。
種子島にピッタリ合う。
これと反対側を意味する西は白虎で、
大隅語のシラは鹿児島語のヒラ、
開聞(ヒラキキ)・枚聞(ヒラキキ)と書く「ヒラギッ」が、
種子島と対照的な西の位置にチャンとある。
ところが後世の半島の国の位置は、
逆転してしまって東がシラギになる。
そして西は四神とは無関係な百済(パクチェ)になる。
しかしこれも「地名移動」の原則に照らしてみると不思議はない。
百済(パクチェ)はご存知のとおり、
もと馬韓であり、馬の国であった。
馬の国は馬津国(マツラ)=松浦(マツラ)である。
その東隣は福岡県である。ここは「白日の国」。
これを「シラジッ」の国と読むと
シラギの沖縄発音「シラジ」になる。
この「西に馬の国・東にシラギの国」が、
そのまま半島南部にまで拡大したのが、
3世紀の半島韓国だったことは疑問の余地がない。
それはその小国群の名が、
ことごとく日本語の名であることでも、
また充分、
立証されているのである。
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「九州が南鮮へ拡大した明瞭な証拠群」
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《参考:年表・資料》
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