2014年3月21日金曜日
公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録34:3頁
三韓が倭国の拡大発展から生まれた地方自治体だったことは、
ほぼご納得戴けたと思うが、それがどんな風に進行したか、
そして魏の楽浪・帯方2郡ができるとどうなったか、
という記録が『魏書・韓章』には、よくわかるように記録されている。
短く要点だけお話ししよう。
「桓霊(後漢の2帝)の末(170~180年代)、
韓・濊(ワイ)は強盛。
郡県は制御できず、多くの民が韓に流入した。
建安(~220年)中、
公孫康は屯有(トンユウ)県以由の荒地を分けて帯方郡にして、
公孫摸と張敞(ショウ)を派遣、
遺民を集めて兵を興し韓・濊(ワイ)を伐(う)つ、
……倭・韓はついに帯方に属す」。
214年に靺鞨(マカラ)が南鮮を荒らしたという記事はこのことである。
そして公孫たちはまだ後漢の臣下で帯方郡も後湊の領土である。
その時代には倭国も三韓も、
その帯方郡の支配下にあったと、ここに明記してあるのである。
後漢の衰えとともに倭人は半島へ勢力を拡げて行った。
しかし公孫軍の反撃に敗れて九州までが
「帯方郡」の中に入れられてしまった。
それが後漢滅亡後、公孫氏の私物化していた。
卑弥呼時代の倭人連邦は公孫氏の勢力下にあったのだ。
『魏書倭人章』では三国時代の歴史以外は省略されて
「倭国乱れ、相攻伐 歴年」としか書いてないが、
『後漢書』はそれを「桓霊の間 倭国大乱」と明記している。
卑弥呼が女王に共立された当時は、
公孫氏の帯方、
のちの『燕(エン)』国の支配下にあったのである。
《公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓》
「公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓」
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