2014年3月14日金曜日

説明不能の国名の合併縮小が畿内説の致命傷


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:26頁

 これで倭国は、卑弥呼時代はもちろん、

 5世紀末になって初めて奈良に本拠をもつまでは、

 近戦圏とは全く無関係だったことが確認できた。
 
 では日本国はどうか?。

 日本国は『旧唐書』の7世紀末の記事に初めて「もと小国」として、

 倭国と別の国だと明記されている。

 それも該当する小国時代の地理条件が、

 全国でも鹿児島県以外にない地形をもつ国として記載され、

 また『新唐書・日本』には、

 その

 「東海の嶼(しま)には

  邪古(屋久島)、

  波邪(隼人)、

  多尼(谷山)の3小王がいる」と

 書き加えてあるので、

 小国時代の日本は7世紀まで鹿児島県にあり、

 隼人より西に首府があって、

 倭国以上に奈良とは無関係だったとわかる。

 人々の移動は、

 地名とその大きさの変化で、

 どちらからどちらへ移動したのかがわかる。

 建国期の移動は拡大移動が原則だ。

 仮に3世紀に近戦が中央だったのなら、

 例えば丹波・丹後・但馬などは以後、

 西に移って一層大きくなり分裂して行く。

 それがなぜ次第に合併して、

 逆に小さくなり、種子島にまで極小してしまうのか、

 説明のつかない現象が幾っも重なって

 大量の旁国で起こったことになってしまう。

 小さいものが、あちらこちらへ分裂しながら、

 次第に移動して行って、

 幾つかの大国になったのは誰にでも理解できるが、

 その逆はどんなにしても理解できない。

 これが邪馬台国大和説や畿内説の最大の欠点なのである。

 《説明不能の国名の合併縮小が畿内説の致命傷
 「説明不能の国名の合併縮小が畿内説の致命傷

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 《参考:年表・資料》 

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