2014年3月30日日曜日

距難が立証した群山の正しさと京城説の崩壊


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:12頁

 ではそれが正しいか間違いか、

 決定的な史料で判定してみよう。

 史料は『魏書倭人章』のコースと行程である。

 よくご記憶だから原文だけにしておこう。

 「郡至倭 循海岸 水行 歴韓国 

  乍南乍未 到其北岸 狗邪韓国 七千余里」。

 この中でも最も強力な決め手が距離である。

 到着点の狗邪韓国は巨済島だから、

 それから約7000×55mの地域に群山があれば、

 帯方郡治の位置として正解である。

 当時の船は海岸に沿って進み、

 毎日、夜には停泊して、

 翌日、また沖へ漕ぎ出す。

 それを計算しながら海岸線を糸で辿って行くと、

 ほぼ400Kmある。

 7000×55mは 385km。

 これに「余里」を足すと、

 ぴったり一致していることになる。

 在来はこの帯方郡治を今のソウル(京城)付近だとして

 疑わなかったが、そこまでだと、

 もう200km以上遠くなるから、

 少なく見積もっても「一万余里」以上になる。

 絶対にソウルでなかったことはいうまでもない。

 この講座ではたびたび「定点」の重要さについてお話ししてきたが、

 終わりに際して、さらに強調して梯儁・張政の出発点。

 それは『魏書倭人章』の出発点でもある位置を

 意義あるものにして戴きたかったのである。

 こうして帯方郡使の倭国への出発点が確定すると、

 私たちの倭人尺は、

 『魏書倭人章』の距離記事の信頼牲を、

 絶対のものにしたということになる。

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 「距難が立証した群山の正しさと京城説の崩壊

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 《参考:年表・資料》 

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