2012年3月1日木曜日
沖縄の国名の変遷による史実の証明
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録07:23~24頁
《沖縄の国名の変遷による史実の証明》
「沖縄の国名の変遷による史実の証明」
日本列島に移動してきて日本人を構成した人たちが、
どんな人々だったかを示し、
記録しているものに、
伝承されて今もよく知られている地名の呼び名がある。
それは過去には単なる別名ぐらいにしか考えられていなかったが、
こうして次々に真相が明かになると、
それらは無意味な別名ではなくて、
それぞれが私たち日本人にとって、
ゆるがせにすることのできない重大な史実であり、
いつ、そう呼ばれていたか、
それはなぜだったかが明瞭に理解できるようになった。
それは同時にこれまでお話ししてきた歴史が、
すべて根拠のある真実の歴史だったことを、
完璧に立証しているのである。
1 <ウルマ>
英国のウーリーの発掘で有名なメソポタミヤの大都市国家
[ウル]国(マ)=最古の国名=第一王朝建設B.C.E.3000年頃。
そのあとを継いだ第一バビロン王朝の滅亡(B.C.E.1750年頃)によって
カルデア人=カリエン人たちが東へ移動し、
沖縄についたのは殷時代(B.C.E.1500年頃)より前、
それが更に中国本土に入って中国最古の王朝・夏を築いたが、
殷人が侵入してきて商王朝を興し、
夏王朝を倒した。
皮肉なことに殷商帝国を強力にした殷の貝貨幣は、
琉球列島に残って貝貨幣産業で栄えていたカリエン人が供給したものだった。
殷人はインディアという名前への中国式当て字。
その青銅器製作技術は、
B.C.E.1500年頃に西アジアから伝来しているのでカルデア人=カリエン人たちが東へ移動し、
夏帝国が誕生した時期に一致している。
この琉球カリエン人たちが国名を故郷と同じ[ウルマ]とつけなかったなら、
今の沖縄に「ウルマ」という古い国名は残るはずがない。
また殷人の同族は、縄文時代後期には、すでに茨城県稲敷郡の福田貝塚に、
殷人と同じ信仰をもっていたことの明かな、
より原始的な宗教遺物を残していること、
「稲敷」という名は「殷の儀式=祭り」を意味する発音をもっているから、
殷人の聖地に当たり、
それは単に殷人が知っていたというだけでなく、
正確に2200km東西に大測量をして都の位置を決める起点にしている事実など、
どこからみても殷人は日本列島に故郷をもつとみるのが妥当だから、
日本列島から中国に移動した人たちだったことは動かない。
2 <流求>
この発音は、現地では「ルク」と発音されていた。
これはドイツのルクセンブルクがギリシャ名の「ルキウス」に語源があるのと同じく、
古代インド東アジア帝国のギリシャ人皇帝ルキウスの支配下にあるという意味の
[ルキウス国]への、中国人による漢字の当て字であるとみると、
アレクサンドロス大王の残したルキウスはB.C.E.2世紀の人。
日本の弥生時代の始めに合う。
また日本語に大量のギリシャ語が入っていること。
『日本神話』のモチーフは100%『ギリシャ神話』と一致するので、
ギリシャ人が私たちの先祖であることは全く疑問の余地がない。
3 <ウチナ>
[大秦=ウチナ]。
徐福(徐市=どちらもジョフッ)が、秦の始皇帝の命令を受けて、童男童女、数千人を連れて
山東半島から支那海へ航海に出た後、日本へ着いたという記録がある。
紀元前200年頃。
この秦は秦氏が実在し、天武天皇の名乗りが始皇帝の子孫を意味しているなど、
多数の文化財を残しているのでこれも疑問の余地がない。
詳細はそれぞれの専門項目でご覧戴きたい。
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