2012年3月20日火曜日
邪馬壹政権の荘園
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録08:22頁
《邪馬壹政権の荘園》
「邪馬壹政権の荘園」
このことで、これまで誰も問題にすることすらしなかった
『魏書倭人章』の「旁国」とは、
卑弥呼政権時代のものだったことが確認できる。
しかし1つだけでは断定できない。
さらに確認できる証拠を探してみよう。
今は横川町と隼人町とに隣接して「牧園町」がある。
これは大隈語では「マッゾン」と発音される。
こちらは、方言のほうが真相をよく理解できるので、それを使って説明しよう。
「マッゾン」の「マッ」は3世紀当時では、
この辺りを支配した邪馬壹国の前身であった狗奴国が、
クダ(馬)ラ(国)と呼ばれた国だったことは明白なので、
馬韓や末盧国の国名を生んだ「馬津(マッ)」と同じものであることは明かである。
鹿児島語の「ゾン」は英語のゾーンと同じ
「地域・領土」を意味する日本の中世語「荘園」だから
「園」の字はそのままの意味をもっている。
これはどこからみても明かに「島津園」であって、
位宮や壹與たちの荘園を意味する地名である。
その地理関係を見て見よう。
牧園町は姫木山のある隼人町と国分市の北隣りである。
そこは有名な温泉地帯をもつ霧島山麓中でも最大最善の恵まれた保養地帯である。
温泉は3世紀当時も今と変わらず沸き出していたから、
邪馬壹国の都に隣接した温泉地帯の、
第一級の荘園であり、楽園であったことは疑う余地がない。
とすればこれは横川町以上に確かな、
邪馬壹国による卑弥呼政権打倒後に生まれた町であり、
邪馬壹政権時代の遺跡だと断定できるのである。
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