2012年3月12日月曜日
邪馬壹戦争の動かぬ証拠=2つの奴国
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録08:14頁
《邪馬壹戦争の動かぬ証拠=2つの奴国》
「邪馬壹戦争の動かぬ証拠=2つの奴国」
女王国が旁国を所属させていた連邦だったとみれば、
その版図は最小限でも県単位程度はあり、
邪馬壹国への上陸点が、
伊都国から水行10日と計算できる熊本県八代市付近であることは
すでに細部まで確認ずみの定点だ。
総合して考えると張政当時の女王国の主都は八代以南にあり、
旁国はそれ以北にも、
伊都国の南まで分布していたことになる。
また、その旁国の記事には、最後に奴国があり、
その説明には
「奴国、これが女王の境界の尽きるところ」という説明がある。
ここで熟考が必要になる。
なぜなら本講の最初に確認した
「戸数 道里 可 略載」の国々の中に、
間違いなく「奴国」が入っていたから、
奴国が2つあることになるからである。
いうまでもなく旁国は「遠絶 不可得 詳」の国である。
その中でも最も女王国から遠絶の国が奴国だと書いているのに、
同じ陳寿が編集した『魏志倭人章』に、
「遠絶」ではなく「隣接」していて、
「戸数、道里を略載した奴国」が実在している。
こんな大きな矛盾を見逃しては学問とはいえない。
なぜなら同じ連邦内に、
全く同じ文字の名の国が複数あることは絶対にない。
だからこれは卑弥呼政権時代には女王国の涯てにあった奴国が、
壹與の邪馬壹国政権時代には伊都国の隣りに移動したのであり、
それは奴国人が壹與・位宮軍の主力だったことを物語るのだ。
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