2015年4月8日水曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承⑤


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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08

 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 ≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫

 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭
 浅草神社

 4.船祭

  昔の隅田川は水清く澄み、

  浅草海苔を採る業者や漁師が多く生活していた。

  その後川が汚濁したり、

  又殺生禁断の地域になったりした事から、

  これらの人々が多く大森辺りその他み移住して行ったが、

  その昔の神恩を忘れず、3月18日の浅草神社の本祭

  (丑、卯、巳、未、酉、亥の隔年)には

  遠く安房、上総の浦々からも

  漕来たって大森の浦に船を繋ぎ、祭礼の前日には

  大森、佃の船と共に浅草川(隅田川)へ漕寄せ、祭りに

  参加したと云われる。

   即ち本祭(隔年)の当日、神社を出た神輿は

  浅草の大通りを浅草見附(今の浅草橋)まで舁がれ、

  浅草御門の外、神田川で神輿を船に遷し、

  浅草川(隅田川)を漕ぎ上がって駒形で陸にあがり、

  神社に舁ぎ帰った。

   この時には一船に一基ずつ神輿を乗せ、

  また故実に従い、専当・斎頭・常音の三坊も

  夫々一基に一人ずつ付き随い、浅草寺の別当顕松院も

  御船に供奉したと云われる。

  これらの船の奉仕をしたのが前述の漁師達で、

  皆船印を立て、

  浄衣を着て威勢よく漕ぎ上って来たものと思われ、

  府内随一の大祭として江戸中の人気を集めたが、

  既に断絶して年久しく約百年程を経過する。

 ◎三社権現船祭再興者功績の碑について

  前述の船祭は宝暦11年(1761年、234年前)に

  故あって断絶したので、それを悲しんだ浅草寺達頭の

  飯山・斎藤の両氏が之を再興しようとしたが、

  生前は果たさず、没後に至って、

  その子の飯山褒廣、斎藤秀正が父の志を継ぎ、

  大森の漁人に語らい出船の奉仕方を約さしめた。

  この船祭再興の模様を語り、二者の功績をたたえ、

  後世に伝えようとしたのがこの石碑で、

  法眼伊蒿が文を作り、

  明和8年(1771年)三社境内に建てたが、

  明治以後は伝法院に移り、

  今池の北側築山の下に現存している。

 ◎昭和33年秋浅草観音本堂落慶の開帳にあたり、

  11月2日の日をえらび、この船祭を復活して執行し、

  以って観音像感得の故事因縁を更に徹底して

  世人に認識せしめた。

 ◎観音堂戒殺碑

  今駒形公園にある。

  その昔浅草観音感得の故事に因み、

  隅田川に於ける殺生漁獲を禁じた石碑で、

  元禄6年(1693)浅草寺権僧正宣存が撰文して

  建立したものである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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