2014年2月8日土曜日
3グループはまだヤマトではありえない
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録32:22頁
こう見てくると、3グループともヤマトではありえない。
少なくとも「聖徳太子+推古天皇」の
女王制倭国(ウワイ)時代=7世紀半ばまでは、
ヤマトという国名が近畿に生まれる必要も、
要因もなかったことは明白である。
では一体?、それはなぜ?、いっ?、誰が?、どのように?、
奈良へ持ち込み、命名したものだったのであろうか?。
これに対する手掛かりと答が大学講義録32の19頁の最後で
お話しした疑問=2人の八幡なのである。
大隈正(しょう)八幡の祭神は応神天皇だが
本当はヒルコの尊のほうだと
大学講義録29の31頁でお話しした。
彼は母の神功皇后が九州北部に遠征した時も、
大隅にとどまったと『正八幡縁起』にある。
ところがもう1人の応神天皇は母と共に遠征して、
その途中、武内宿祢に連れられて笥飯(ケヒ)の大神に参拝した。
すると神が言い出して、皇子と名を交換した、と書いてある。
これをオオヒルメが大隅に連れてきた八幡と、
彼と名前の取換(とりか)えっこをして、
名前をもらつた、ずっと年下の。
もう一人の八幡と、
八幡が2人できたと理解すると、
初めてどちらがヤマトの語源になったのかという謎が、
少しだが解け始める。
倭の五王の初代・讃は応神天皇の皇子である。
彼は大分から出て四国を征服した。
大分には宇佐八幡宮がある。
宇佐王(ギ)はウサギ、
仁徳天皇が宇佐八幡系だったことは間違いない。
《3グループはまだヤマトではありえない》
「3グループはまだヤマトではありえない」
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿