2014年2月21日金曜日

サカイ(坂井)の信仰女王だった壹與


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:5頁

 掖邪拘は壹與が女王になった後も壹與の側(がわ)に残って、

 今度は張政を帯方郡まで送って行く大使=大夫・率善中郎将として、

 再び魏の朝廷まで行って白球5000孔などを献上している。

 これは幼児の八幡=ホムツワケに出来ることではない。

 ホムツワケがもつ八幡という名乗りはそれより後に掖邪拘から

 相続した名乗りだったとわかる。

 ではそれ以前の名は何といったか?…。

 それこそが

 私(加治木義博)が中上川宮司から教わった

 「ヒルコの尊」だったのである。

 そして二人の幼児が種子島から小舟で漂着したのでもない。

 それは位宮=垂仁天皇の戦略によって、

 軍船に乗って攻めこんできたのである。

 なぜ位宮は彼女を必要としたか?。

 それは彼女が卑弥呼の宗女という地位をもっていたからである。

 それを証明するのが、

 大学講義録31の9頁でお話しした

 サカは繹迦(シヤカ)のことだという事実である。

 大隅のサタ=佐多岬へ渡った種子島軍の拠点サカイとは、

 この釋迦族の町、

 壹與が信仰女王として尊ばれていた町だったのだ。

 しかし種子島は中央の野間(のま)が、

 奴国(ノマ)として記録に残ったシンドゥの一大勢力圏だったし、

 位宮自身、高句麗・山上王(山神(やまがみ)王)を

 名乗りにもつシンドゥ教徒の指導者だったから、 

 壹與はあくまで卑弥呼の統治に馴れた倭人たちを、

 懐柔(かいじう)するための「象徴」に過ぎなかった。

 このことがその後、続発する悲劇の原因になったのだが、

 それは<大学講義録35>以後の主題である。

 《サカイ(坂井)の信仰女王だった壹與
 「サカイ(坂井)の信仰女王だった壹與

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

0 件のコメント:

コメントを投稿