2014年2月9日日曜日
完全無欠の「山人(ヤマト)の国」実在
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録32:23頁
では宇佐の八幡は、大隅の八幡・本都(ポント)別皇子ではないのか?。
彼は隼人町を動かなかったと記録されているのだから、
名前を譲ったほうである。
するとなぜ?彼は笥飯(ケヒ)の大神などと書かれているのか?。
それは笥飯でわかる。
この当て字はケヒともケイとも読める。
ケイは「軽」と書いてもケヒ・ケイで、
応神天皇の皇居・軽島の明の宮=軽之(シ)国(マ)の明(アカル)の宮=
鹿児島(カルシマ)の阿鹿児(アカル)の宮=鹿児島神宮の所在地を、
別の当て字で書いただけなのである。
一方、名を譲られたほうの八幡は、
福岡県糟屋(かすや)郡の宇美(うみ)町で生まれたとされている。
そこは宇佐とは直線距離でも80kmのところにあるが、
宇美を宇三と書けば宇佐になる。
どちらにしても仁徳天皇系の倭の五王の先祖である。
しかし倭の五王はヤマトとは無関係だった。
とすればヤマトと名乗ったのは、
隼人町に残ったほう八幡のグループだったのか?。
そのグループがいつ?
奈良まで移動して、
そこをヤマトの国と呼ばせたのか?、疑問だ。
隼人町は巴利国だった。
「山」はパーリ語で「giri ギリ」である。
海岸にある隼人町から見ると、山は霧島である。
「giri之国(しま)」と書くとギリシマ、
清音になればキリシマになるし、
マをヤに換えればギリシャになる。
これで山岳信仰のギリシャ人の国をうまく表現した
当て字が「霧島」だとわかる。
どこからみても無理のない「山人」の国がここにある。
《完全無欠の「山人(ヤマト)の国」実在》
「完全無欠の「山人(ヤマト)の国」実在」
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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
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