2014年2月26日水曜日

一大率の正体は奴国人。関西進出は後世


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録33:10頁

 これで種子島人の関西進出は、

 弥生時代から始まっていたが、

 丹波・丹後・但馬といった地域への大規模移住は、

 邪馬壹国誕生より後世のものだったことがわかる。

 なぜなら、丹後半島の「浦島太郎伝説」は、

 位宮がモデルなのに、

 それが全くわからない程に変形してしまっている。

 これは位宮時代以後に移住した人々が、

 種子島を忘れるほど後世に、

 むかし昔の祖先の体験として語り伝えたものが、

 風化して変形したのであって、

 決して当時も凄い文学者がいて、

 史実からお伽話を作り上げたというものではないからである。

 また製鉄には前図の火吹き竹ていどの道具では無理で、

 どうしてもタタラという踏鞴(ふいご)が必要である。

 このタタラの名は、

 福岡市東区に多々良の地名を残している。

 同じ福岡県に大移動した奴国の勢力圏なのだから無関係ではない。

 「タタル」は「崇る」で、

 恐ろしい相手であり支配者で、

 『魏書倭人章』の一大率でもある。

 またタタール人もチクシ人や匈奴らのように

 ここから北上して移動した人たちである。

 地名分布からみて、

 水稲と同じく、

 その逆の北からのコースはありえない。

 《一大率の正体は奴国人。関西進出は後世
 「一大率の正体は奴国人。関西進出は後世

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 《参考:年表・資料》 

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