2014年2月10日月曜日

蓋鹵(コオロ)王の残党が天武東征の功臣ヤマト族


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:24頁

 今この山深い霧島で印象的な苗字に出会う。

 地域全体が「コオロギ」さんという珍しい姓のところもある。

 その当て字は「木へんに興」という漢字辞典にもない字と、

 これもほとんど使われない「木へんに呂=梠」の字である。

 常識的に読めば"木へんに興梠"「コウロ」のはずなのに、

 なぜコオロギなのか?。

 思い浮かぶのは同じ発音をもった私たちには馴染み深い人物、

 世界最大の墓を造ったが、

 そのため国を失った百済倭国王=倭王・興だった

 「蓋鹵王(コオロぎ)」である。

 彼はまさにコオロギという発音をもっている。

 その一族は守口市の佐太から京都の嵯峨(さが)へ

 そして出雲の佐太へ移動したが、

 もともとの出身地、

 巴利国へ戻って、

 山間に身を隠したとすれば、

 その名が、

 セミやキリギリスが盛んに鳴く昼間は、

 草むらに隠れて姿を見せないが、

 夜になるとカ細く鳴いて、

 やっとその存在がわかる虫

 「蟋蟀=コオロギ」の名に当てられたとみると、

 これもまた蔑称の一種で、

 ただ敗者に対するものだという点が異なるだけである。

 彼らは本来、宇佐八幡を祖神にもつ八幡徒(ヤマト)である。

 さらにギリシャ伝来の山岳信仰をもつ山人(ヤマト)だ。

 こうした山人が再び大活躍してついにヤマトの名を後世に残したとすれば、

 それは一度しかない。

 高句麗倭国の孝徳政権を倒し、

 斉明(さいめい)女帝を朝倉の宮で狂死させた天智天皇政権を討つ、

 大海人皇子(倭(オオ)・海人(ハヤト))=天武天皇に従った「東征」が、

 それだったのである。

 《蓋鹵(コオロ)王の残党が天武東征の功臣ヤマト族
 「蓋鹵(コオロ)王の残党が天武東征の功臣ヤマト族

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