2014年2月15日土曜日
今も沖縄に残る貴重な客観知識「ヤマト」
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録32:29頁
念のため、我が国でも8世紀中に、
国名・都名がクルクル変わった史実を指摘しておこう。
聖武(しょうむ)天皇は724年に平城京で即位したが、
737年(天平9年)大倭国(おおやまと)の名を大養徳(おおやまと)国に改めた。
740年(天平12年)12月に、
山背(やましろ)の国(京都府)相楽(さからか)郡に
恭仁(くに)京を造って翌年遷都したが、
それを大養徳恭仁(くに)大宮と名付けた。
しかし宮殿がまだ完成しない742年に
近江の国(滋賀県)甲賀(かふか)郡に
紫香楽(しがらき)宮をつくって移り、
744年には恭仁京の造営をやめて廃朝し、
今度は難波(なにわ)の離宮に移って難波京と呼んだ。
ところが745年には病気になって、
元の平城京に遷都する。
そして747年(天平19年)3月には、
大養徳国の名をもとの大倭国に改めた。
これが立証する最も肝心なことは、
国名は「オオヤマトの国」であって、
「ヤマトの国」ではないことである。
これは何を意味するか。
沖縄では今も、日本全体は「オオヤマト」呼んで
「ヤマト」とはっきり区別している。
では「ヤマト」とは奈良県のことか…?。
そうではない。
鹿児島のことなのである。
いくら沖縄は江戸時代まで外国だったといっても、
奈良が一時的にヤマトになったことを知らないわけではない。
しかしそれ以上に古代の史実が身近にあった。
「ヤマトン・チュー」という人種は鹿児島人のことだという常識が、
我が国の政権外にいたお陰で、
なくならずに古代のまま残っていたのである。
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