2014年2月28日金曜日
種子島から北上したウッタラの残した文化財
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録33:12頁
また多々良の痕跡は南九州から始まっっている。
鹿児島県の伊佐郡は伊勢に当たる地名や、
伊弊諾(いさなぎ)・伊弉冉(いさなみ)尊2神の名にも関係があるが、
その首都・大口市青木に多々良石という字(あざ)がある。
大口は狼の別名で大神を意味し、青木はオオキで倭王を意味する。
そこに多々良石があるのだから、
卑弥呼当時の率善中郎将・伊声耆(イサンギ)(イサナギ=伊佐王)が
タタラをもっていたことを、
立証する動かない証拠の地名文化財なのである。
また近くには西多良の地名も残っているので、
タタラの名を生んだウッタラが南九州でも
すでに大多良という当て字をもっていたことがわかるが、
ウッタラそのものの地名は、
今は変形が激しくて、
次のような分析が必要になっている。
天皇の名乗りに多出する「根」の字は「タラシ」と
読むのが正しいことはもうよくご存知のことだが、
この知識があれば鹿児島の垂水(たるみず)市にある漁港の
「牛根(うしね)」は
ウッタラへの当て字だったことがわかる。
ウシネは大隈語でウヒネだが、私たちにはウッネと聞こえる。
このネがタラシなら「ウッタラッ」だから、
これは完全に
「ウッタラ津港(っみなと)=ウッタラの港」への当て字だったからである。
この牛根はまた境(さかい)と麓(ふもと)に分かれている。
サカイはもうよくご存知だが、
フモトは府元で、支配者の政府のある場所を意味する。
今は小港でも、かつては首都だったという文化財なのだ。
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「種子島から北上したウッタラの残した文化財」
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《参考:年表・資料》
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