2014年2月7日金曜日

日本海と瀬戸内海の2コースを進んだ2グループ


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:21頁

 さらにもう1つのコースがある。

 それは、

 日本海を経由して但馬・丹波から大阪へ入ったグループのもので、

 私たちはすでに、

 この人々も

 高句麗長寿王(長州王=敏達(びだつ)天皇)→用明天皇→蘇我稲目→孝徳天皇の

 名乗りによって、そのコースと実体を知っている。

 この3集団のうち、最後まで残ったのは孝徳天皇だったが、

 その高句麗倭国も大化大戦で崩壊して関東へ大移動した。

 『続日本紀』によると、

 関東7国に分散していたその1799人の人々を、

 元明天皇が716年に武蔵の国に移して、

 新たに置いた行政区画が高麗(こま)郡である。

 仮に彼らが奈良に逃げこんだとすれば、

 奈良に高麗(コマ)の名は残ったが、

 ヤマトの名は残らなかったのである。

 ではヤマトは、

 残る2グループのうちのどちらの名だったのだろう?。

 倭の五王系はポセイドン教徒なのだから

 海神を集る海人(ハイト)族であって、

 山を祭る山人族とは対立関係にあった。

 政治的には臣下として服従していても、

 政権を握って立場が逆転すれば、

 自分でヤマトを国名にするはずはない。

 ハセかフジになっていたはずである。

 残るのは一つ。

 巴利国を移動させて

 兵庫県に播磨(ハリマ)をつくった勢力「神功皇后」派である。

 しかし彼らは明かに倭の仏教徒なのだから、

 命名するとすれは倭国(ウワイ)だし、

 現実に聖徳太子は上(ウワ)宮太子と呼ばれ、

 尾張(ウワイ)という地名を中心にした

 「近つ飛鳥=大阪府」に住んでいた。

 《日本海と瀬戸内海の2コースを進んだ2グループ
 「日本海と瀬戸内海の2コースを進んだ2グループ

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 《参考:年表・資料》 

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