2014年8月4日月曜日

阿曇・安曇(90)エリュトゥラー海案内記:PERIPLUS MARIS ERYTHRAEI

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(90)エリュトゥラー海案内記:PERIPLUS MARIS ERYTHRAEI

 課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
    ―古代世界における海洋交易の実相―

 出典:「エリュトゥラー海案内記」PERIPLUS MARIS ERYTHRAEI
    村川堅太郎訳註:中公文庫

 紀元1世紀なかば、エジプト生まれの無名の無名の商人が誌した

 ギリシア語の文献、「エリュトゥラー海案内記」は、

 古代南海貿易の実態を生き生きと伝える貴重なしりょうである。

 季節風に帆をあげ、みずから紅海、インド洋に

 乗り出した体験にもとづく記事は詳細にわたり、きわめて精彩に富む。

 ヨーロッパ古代史の碩学が、六十六節からなる小冊子を

 平明達意の日本語に訳出し、

 周到厳密な解説と訳注を付す。

 「地図」古代東西交通路:(Warmington による)

 「エリュトゥラー海案内記」124・125頁

 第三十七節

 オマナ地方の次には同じく、別の王国に属する

 パルシダイの地方といわゆるテラブドーンの湾が横たわり、

 その真中に当たって(岬が)突出している。

 そしてこの湾には一つの河があり船を入れることが出来、

 河口にはオーラテアと呼ばれる小さな商業地があり、

 また河の背後には海から七日の道程離れた内地の市があり、

 其処にはまた王宮もあって、(ラムバキア)と呼ばれる。

 この地方は多量の麦と葡萄酒と米と棗耶子とを産するが

 海岸地方にはブデルラ以外には何も産しない。

 第三十八節

 この地方の後ろには湾が深く入り込んでいるために

 今や海岸が東から海中に突出しているが、

 真北に横たわるスキュティアーの沿海部分が続き、

 実に低平の地方で、其処からシントス河が(海に注ぐ。)

 これはエリュトゥラー海の河の中でも大きく

 かつ極めて多量の水を海中に注ぐので遠くまで、

 そして人が陸地に近づくより前に、

 この河からの清い水がやって来るのである。

 大海から来た者にとってこの河の辺に近づいた証(しるし)は

 海の深みから現れて来る舵である。

 ちょうど上述の地方やペルシス地方では

 グラアイと呼ばれる舵が証であるように。

 この河には七つの河口があるが、

 これらはささやかで沼地風であり、

 臨海の商業地バルバリコンのある真中の河口を除いては

 他は航行が出来ない。

 この(河口の)前面には小さな島があり、

 背後の内地にはスキュティアの主都ミンナガルがある。

 バルティアー人の王により支配されているが、

 彼らは絶えず互いに追い出し合っている。

 乳香とガラス器と銀器と貨幣、それから少量の葡萄酒である。

 これと入れかわりに船に積み込まれるものは

 コストス、ブデルラ、リュキオン、ナルドスとカルレアノス石と

 サッペイロスとセーレスの毛皮と綿布と生糸と黒色インディゴである。

 航海者はインドの(季節風)に乗って―略―


 「エリュトゥラー海案内記」218・219頁

 「リュキオン」
 
 この名前は小アジアの Lycia の産を想わせる。

 Plinius N.H.XXIV 77 § 125 には一種の潅木で

 その枝や根から煎じた液汁は薬品として広く用いられ、

 インド産のものはリュキアのよりも上等であると誌されており、

 XXV 30 § 67 ではリュキア産のが 

 Centaurium という植物から出来る旨を述べている。

 Watt p. 130 によるとインド産のは

 ヒマラヤ山の六千~一万フィートの高処などに自生する 

 Berberis Linn. という植物で現在でも根や幹から黄色染料や、

 特に眼病の薬がとられる。

 「ナルドス」

 英名 nard. 西パンシァブ、シンド、ベルチスタン、ペルシアに産する

 Cymbopogon Schoenanthus の主として根から採った香料。

 Plinius N.H.XXII 26 § 42 sq. に香油中に主要な位置を占め、

 その穂は一ポンド百デーナーリウス、

 薬は四十~七十五デーナーリウスで、

 インドのほかシリア、ガルリア、クレータ島にも産したと伝えている。

 ペルシアの方面のものについては

 アルリアーヌスのアレクサンドゥロス遠征史(VI 22. 5)に

 大王の西帰の途上ゲドゥロシアーの荒野にこれが多く自生し、

 従軍せるフェニキア商人がその根を採集してこと、

 また軍隊により踏みつけられた木は

 四辺に芳香を放った旨が誌されている。

 なお Nardos とも呼ばれる香料は Cymbopogon jwarrancusa という

 前者より南方に生ずる草からも採れたし、

 Spikenard という草からも採られた。

 それで本節の他(四八)、(五六)、(六三)に

 インドの諸港から色々の名のついたナルドスが輸出されると見えている。

 (四八)の註(4)及び Watt p. 461-462 を看よ。

 「カルレアノス石」

 Skr. Kalyana 「祝福された」の音訳 (Bloch)。

 Plinius N.H. XXXVII 33 § 110 以下の Callaina(一本Callais)

 に同じ。

 これは同署によると薄緑色で中央アジアに産し、

 優良品はカルマニアから出た。

 Lassen IIIS. 14 はこれをバクトゥリア方面から

 インドに来たトルコ玉とみており、

 Schoff も Turquoise と訳している。

 氏によればこれの産地は Khorassan 地方で、

 此処からカブールの谷を通ってインダス河口に至り

 輸出されたのは自然である。

 「サッペイロス」

 これは今日インドに産するサファイアではない。

 Plinius N.H. XXXVII 39 § 120 に見える Sapphiri もやはり

 「空色で最良のものはメディア産であるがいずれも透明ではなく、

  また結晶の部分を含んで彫刻には役立たぬ」とあり、

 サファイアではない。

 今日のサファイアは南インドとセイロン島(スリランカ)の産で

 態々(わざわざ)北インドのバルバリコンから輸出されるのは

 不自然であり、

 本書のもプリーニウスのもともに装飾材として

 また青色塗料として古くから用いられた Lapis Lazuli と考えられる。

 その産地は中央アジアの Bokhara 地方で、

 カルレアノス石と同じ経路でバルバリコンから輸出されたわけである。

 「エリュトゥラー海案内記」220・221頁

 「セーレスの毛皮]

 古代に於ける東西貿易の東端の国として、

 また絹の生産者として地中海方面に朧げながら広く知られていた

 Seres の名は本書では此処ではじめて出た。

 Setarabo XV c.702 に理想国風に誌されて以来

 Ptolem. VI 16 のやや詳細な記述に至るまで

 Seres の名は他の古典にもしばしばその名が見えるが

 (註(10:生糸)参照)、

 それがどの地方の住民であり、silk, soie,Seide の語の語源をなす

 Seres の名が何を写したかについては

 山下寅次氏が史学雑誌十七編四、五、六、八、十、十一号、

 十八編一、三、四号で「セレス、セリカに就きての考」の題の下に

 極めて詳細な研究を発表し、欧人の見解を批判しておられる。

 氏によれば「セレスの地方」たる Serica について最も詳細に誌している

 プトレマイオスに於いて、

 その指すところは大体葱嶺(パミール)より東、

 シナ西北部に及び

 北は天山蒙古地方からシナ、トルキスタン、チベットを含み

 ヒマラヤ山脈に及んだ(十七編四六四頁、同巻十号附図参照)

 Seres,Serica の名がシナの西辺で絹の売買を仲介せる

 アルタイ語族の人々の絹を呼んだ語に由来することは今日定説である。 

 絹は蒙古語で Sirge と呼ばれる。

 此処に見える「セーレスの毛皮」については

 Plinius N.H.XXXIV 41 § 145 で

 「あらゆる種類の鉄の中セーレスのそれが最も優秀であり、

  彼らはこれをその衣服に(絹布)と毛皮とともに送る」と延べ、

 またPlinius N.H.XXXVII 78 § 204 では

 「あらゆる皮のうち最も高価なのはセーレスの染めたものである」と

 記していることを想い合わすべく、

 Vincent や Muller のように本書の記事を疑うべきではなかろう。

 中央アジア方面の毛皮がカブールを経て齎されたものらしい

 (cf.Warmington p.157-158)。

 但しプリーニウスに於ける「セーレスの鉄」は

 Schoff p.209 により

 実は南インドの Chera 国の鉄の意味ではないかとの

 疑いが提出されている。

 蓋し ch の音と s の音が Ceylon の言葉では

 入れ替わっている場合があり、

 本書(六)にもインドの鉄のことが見えるからである。

 「エリュトゥラー海案内記」221・222頁・注釈

 「生糸」

 ローマ帝政期を通じてローマ人に甚だ珍重せられ、

 時には同じ重みの金と値を均しゅうすると言われた

 (Script Hist. Aug. Aurelianus 45)

 シナの絹が古代東西貿易の最重要商品だったことは言うまでもない。

 このことは序説四四頁に引いた後漢書の記事でも明らかである。

 絹は絹布の他にも生糸の形で送られたが、

 真綿の形でも送られたことは(六四)の記事が示している。

 ところで山繭(天蚕)から絹布を織ることは

 地中海方面でも行われていたが

 (Plinius N.H.XI 25 § 75 sq.)、

 シナの養蚕業のことは古代の地中海方面には

 殆ど知られていなかったらしい。

 Stabo.XV.c.694 所引 Nearchos によると

 絹は亜麻の表皮を梳って出来ると考えたらしい。

 Vergilius Ceorg. II 121 には

 「Seres が繊細な羊皮を樹の葉から梳る」旨誌されており、

 綿のように生糸も直接に樹から採られ植物性の繊維であるとの

 考えが支配的だったようである。

 Plinius N.H.VI 20 § 54 も Seres を

 「森の羊毛で有名な」と形容しており(cf.XII 21 § 38)、

 四世紀の Ammianus Marcellinus XXXIII 6 § 67 sq. に於いても

 Seres の国土が理想国風に描かれ、

 その輝かしい森林から羊毛のごときものを産し、

 それを梳って絹織物が出来る旨伝えている。

 ただ二世紀のパウサニアースは Seres の土地には関しては

 「エリュトゥラー海の最奥部に横たわる Serica の島」

 程度のことしか知らなかったが、

 絹については俗説を訂正して次のように記している(VI 26 § 7-9)

 「セーレスが衣を造る糸は樹皮から出来るのではなく

  次のような別の方法で造られる。

  彼らの土地にはヘルレーネスが ser と呼ぶ虫があり、

  セーレス自身はこれを ser と呼ばず別の名で呼んでいる。

  その大きさは甲虫の最も大きなものの二倍で、

  その他の点では樹下に巣を織りなす蜘蛛に似ており、

  実際足の数も蜘蛛と同様に八つである。

  セーレスは寒暑の気候に適した家を造ってこの動物を養う。

  この動物の造るものは繊細な糸で、その足に巻きついている。

  彼らはこの虫に稯を食わせて四年に亘り飼育し、

  五年目になると最早その生存出来ぬのを知っているので

  緑色の蘆を与える。

  これはこの虫の最も好む食物なので蘆に満腹して虫は破裂し、

  死んだ虫の体内に沢山の糸が見出されるのである」と。

 養蚕業に関する正確な知識が地中海方面に伝わらなかったのは

 絹貿易路の仲介商人が己の利益のために

 殊更にこれを秘密にしたことが与っているであろう。

 六世紀に至り東ローマのユスティニアーヌス帝の時、

 遂に蚕卵がコンスタンティノーブルに齎されて

 養蚕業の起こったことは普く人の知るところである。

 「黒色インディゴ」

 熱帯、亜熱帯地方に産する Leguminosae 風の Indigofera 

 から出来た染料。

 その植物は三百種を含み、インドのみでも四十種を産する。

 Plinius N.H.XXXV 25 § 43 以下に詳しい。

 「インドの産で外見は黒色であるが水に溶くと

  紫色と青色の不思議な混合色を呈する……

  その値は一ポンドに十デーナーリウス。

  薬用として瘧(おこり)と発作を鎮め、潰瘍を乾かす」と見える。

 今日の生産については Watt p. 660 以下に極めて詳細な説明がある。

 「インドの季節風」

 (五七)
詳し。

 「エリュトゥラー海案内記」142・143頁

 「第六十四節」

 この地方の後ろに既に全く北に当たって

 ある場処へと外海が尽きると、

 其処にはティーナイと呼ばれる内陸の大きな都があり、

 此処からセーレスの羊毛と糸と織物が

 バリュガサへとバクトゥラを通じて陸路で運ばれ、

 またリミュリケーへとガンゲース河を通じて運ばれる。

 このティスの地方へは容易には到達することが出来ない。

 というのは此処からは稀に僅かの人たちが来るに過ぎないから。

 其処は小熊星の直下に位し、

 ポントスとカスピアー海との最も遠隔の部分に境を接するといわれる。

 カスピアー海の傍らにはマイオーティス湖が横たわり

 大洋(オーケアノス)に注いでいる。

 「第六十五節」

 毎年ティスの境には体が矮小で顔幅が恐ろしく広く、

 ……の一種族がやって来る。

 (噂によると)彼らはベーサタイと呼ばれ、

 未開人に殆ど同じだそうである。

 彼らは女や子供を伴い、

 大きな荷物即ち葡萄の若葉を容れた籠に似たものを運んでやって来て、

 それから彼らとティスの人々との境界の或る処に留まり、

 籠を敷き延べてその上で数日間お祭り騒ぎをした後

 もっと奥地の自分の故郷へと出発する。

 人々はそれを見張っていて

 この時其処にやって来て彼らの下敷きを集め、

 ペトゥロイと呼ばれる蘆の葉肋を引き抜き

 (ベーサタイの持ってきた)葉を薄く重ねて丸くして

 蘆の葉肋で指し通す。

 これに三種があり、

 大型の葉からは大丸(おおまる)マラバトゥロンと呼ばれるものが、

 これより劣った葉からは中丸(ちゅうまる)が、

 更に小さな葉からは小丸(しょうまる)が出来る。

 そこで三種のマラバトゥロンが出来、

 そしてこれを造る人達によってインドに運ばれる。

 「第六十六節」

 これらの場処の後の地方は或

 いは激しい暴風や非常の寒気のために近づき難く

 或いはまた神々の神秘な力のゆえに踏査不可能である。

 「エリュトゥラー海案内記」223・274・275頁・注釈

 「第四十節」

 「エイリノン」

 Eirinon 今日の Cutch 島の北及び東側の広大な荒地(Rann of Cutch)。

 乾燥季には海水面より、一、二尺上であるが、

 雨季には三尺位の水溜りとなる。

 Eirinon の名は Rann,Rinn とともに梵語で

 「潟」を意味する irina から来ている。

 …略…

 「第六十三節」

 …略…

 「真珠」

 ガンジス河産の真珠は形が小さく、

 不整形でかつ赤味を帯び優秀ではない。

 「ガンゲース織」

 ベンガル産の木綿織で、インドでは西北部でも優秀な木綿が出来たが、

 作者の説くようにこの地方のが古来特に優秀であった。

 今日ではその中心はブラマプトラ河の河口近くの Dacca で、

 Watt p. 617 によればこの地方で手工業的に紡がれた綿糸は優秀であり、

 最新の紡績機械を使用する欧米人もこれから学ぶべきものがあると言う。

 「金坑」

 この地方には顕著な金山はない。

 出来るのは砂金で Calcutta:現在コルカタ)の西に当たる

 Chota Nagpur の高原の西部を流れてガンジス河に合する

 今日の Son 河やその他、この高原を流れる諸河は古来砂金を産した。

 その他チベットやビルマ境の Assam からも砂金が出た。

 この砂金について Herodotus III 102 sq. 

 をはじめ多くの古典に伝えられた

 蟻を利用しての砂金採集の説話が生まれたらしい。

 但し

 MaCrindle, Ancient India as described by Megasthenes and Arrian. 

 Reprint 1926 p. 95 note

 参照。

 今日インドには諸処に金を産するが産出量は僅少であるり、

 上述の Chota Nagpur 地方も地質調査の結果有望でないとされている。

 (Watt p. 565 sq.)。

 「カルティス」

 この名の起源については色々の推定が行われているが、

 いまだ充分首背せしめるものはないようである。

 音声の上からは梵語 Kalita 

 (「算えられた」の義)が最も近いようである。

 「クリューセー」

 Chryse 「黄金(島)」の義であるが、これは作者の誤解で、

 当然島ではなく半島とあるべきところである。

 即ち今日のマレイ半島であるが、

 Plinius N.H.VI 20 § 55 では Seres に関する漠たる記述の中に

 彼らの土地に Chryse と呼ばれる半島のあることを誌している。

 Cf. VI 23 § 80。

 二世紀のプトレマイオスになるとこの半島に関しては

 更に明確な記述が見出される。

 即ち VII 2, 25 の黄金半島の条に

 Balonka, Kokkonagara, Tharrha, Palanda の四市を置いている。

 なお I 13-14 参照。

 彼の利用した Tyrus の Marinus 書にはマレイ半島の彼方まで航海した

 Alexandros という水夫の報告が採用されていたのである

 (Ptolem. 114)。

 詳しくは Warmington p. 126-127 参照。

 黄金半島と呼ばれたのは Schoff によれば

 単に東の果てに商人らの理想国を置いたというものではなくて、

 現に Pahang 州に古代大金坑の跡が発見されているところから推すと

 事実この頃から盛んに金を出したためであるという。

 「第六十四節」

 「ティーナイ」Thinai 

 Frisk は写本のまま Thina としているが Ptolem. VII 3,6 には

 Sinai (民族名) の「首都 Sinai 或いは Thinai 銅の城壁も、

 その他特記すべきもの…略…

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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