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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々
―西方絹貿易商人たちの居留地―
阿曇・安曇(111)『日本書紀』講義と解釈⑦
出典:『日本書紀』講義と解釈
邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆の訓
④〔 (6) 〕について
邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆はそれぞれ字が異なるが、
その意味に違いがあるのか、という問に、
師は、その意味に違いはなく、みな「倭」の音をとったものだ、
と答えている。
「倭」の音とは「やまと」であるが、
おもしろいことに
『続日本古典全集』の『釈日本紀』には
ところどころにフリガナがあり、
邪馬臺には「ヤマタイ」とフリガナがふってある。
このフリガナはいつ誰が付けたものなのかわからないが、
少なくともこのフリガナが付けられた時代までは、
邪馬臺は「やまと」とは読まれていなかったことがわかる。
師の答えによれば、
邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆は「倭」の訓だということになる。
それならば邪馬臺には
「ヤマト」とフリガナがあってしかるべきはずなのである。
『私記』による教育はあっても邪馬臺を
「やまと」と訓む読み方はなかなか浸透しなかったものとみえる。
邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆は「倭」の訓だといっても、
万葉仮名からは「やまと」とは読めなかったというのが
真実なのではないだろうか。
だいたい邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆は「倭」の訓ではないから、
この結果は当り前といえば当たり前なのである。
念のためにいっておくと、
邪摩堆は『隋書』の邪靡堆のことであり、
邪靡堆は『魏志』の邪馬臺(邪馬壹)のことであり、
邪馬臺(邪馬壹)は倭国の代表国である。
邪靡堆は俀国(倭国)の都となっているから、
邪馬臺は倭国の代表国からその都になったのである。
つまり倭国は邪馬臺ではなく、
当然邪馬臺は倭国を音で表現したものではないのである。
この問に対する答えは、
中国史書を読んでいる人であれば、
明らかな間違いであることはすぐわかる。
『私記』はそれを敢えて「倭=邪馬臺」に結びつけた。
なぜか。
それは日本が倭国に代わって日本列島の代表として生きていくためには、
どうしても伝統ある倭国の歴史が必要だったからである。
その方針と教育は功を奏し、
現代においても邪馬臺を「やまと」と読み、
中国史書にある「倭」までも「やまと」と読む人たちが後を絶たない。
途中の歴史では邪馬臺は「ヤマタイ」であるから、
どうも現代の方が『私記』の感染力は強くなっているようである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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