2014年8月21日木曜日

阿曇・安曇(116)『後漢書』東夷傳倭章(2)

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(116)『後漢書』東夷傳倭章(2)

 『後漢書』東夷傳倭章

 土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績爲縑布。

 出白珠、青玉。其山有丹土。氣温、膎、冬夏生菜茹。

 無牛馬虎豹羊鵲。

 鵲或作雞其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨爲鏃。

 男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。

 其男衣皆横幅結束相連。

 女人被髮屈紒、衣如單被、貫頭而著之;並以丹朱扮身、

 説文曰扮、塵也。

 音蒲頓反如中國之用粉也。

 有城柵屋室。

 父母兄弟異處、唯會同男女無別。

 飮食以手、而用邊豆。

 俗皆徒跣、以蹲踞爲恭敬。

 人性嗜酒。多壽考、至百餘歳者甚衆。

 國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。

 女人不淫不妒。

 又俗不盜竊、少爭訟。

 犯法者沒其妻子、重者滅其門族。

 其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞爲樂。

 灼骨以卜、用決吉凶。

 行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰「持衰」。

 若在塗吉利、則雇以財物;如病疾遭害、以爲持衰不謹、便共殺之。


 土地は禾稲(いね)・麻紵(あさ)の〔栽培〕や、

 桑を植えて養蚕するのに適している。

 〔倭人は〕糸を績いで布を織る技術をもっており、

 縑布(かとりぎぬ)を生産する。

 白珠(真珠)・青玉(碧玉)を算出し、

 山には丹がある。

 気候はおだやかで、

 四季を通じて野菜が育つ。

 牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)などはいない。

 武器としては矛楯・木弓・竹矢が用いられ、

 〔矢には〕時には骨鏃を使っている。

 男子はみな黥面文身し(顔や身体に入墨し)、

 入墨の〔位置の〕左右や大小によって〔身分の〕上下を区別している。

 男子の衣服は横広〔の布〕を結束して連ねただけのものであり、

 女子は髪を束ねているだけで、

 単衣のような衣服に頭を貫して着ている。

 〔男女ともに〕丹や朱を体に塗りたくっているが、

 これは中国で白粉を使って〔化粧する〕ようなものである。

 〔倭国には〕城柵がある。

 家屋は父母の棟と兄弟の棟とが別である。

 ただ寄合いの時などは、男女の差別なく〔ふるまい〕、

 邊豆(木製の高杯)に盛ったものを手づかみで飲食する。

 普通はみな徒跣であり、

 蹲踞(両膝を折って腰をおろす)の姿勢で恭敬の意をあらわす。

 人はみな酒好きである。

 長命の者が多く、百余歳にまで至る者も大変多い。

 男子よりも女子の方が多いので〔諸国の〕大人(有力者)は

 みな四、五人の妻をもち、

 その他の者でも二、三人はもっている。
 
 〔それであるのに〕女性たちはいたって貞淑で、

 決して嫉妬などしない。

 風俗は盗みや争いごとが少ない。

 もしも掟を破れば、〔犯罪人の〕妻子を没収し、

 特に重罪の場合は一族の者をことごとく死刑にする。

 死者が出ると十余日間喪に服するが、

 〔この間〕家人は哭泣して酒食べせず、

 やって来た仲間たちが歌舞して〔葬送の〕楽とする。

 骨を灼いて〔日の〕吉兆を卜う。

 海を渡って〔中国に〕往来する際には、

 一人の人物に、髪を梳き沐することや、

 肉食し婦人を近づけることなどを禁じている。

 こうすることを持衰(もの忌みする)という。

 もしも道中無事でご利益があれば財物を与えてその報酬とするが、

 一行に病人が出たり災難に遭ったりすると、

 それはこの人物が持衰を謹行をしなかったからだとして殺してしまう。 

 ※出典:邪馬臺国の言葉:16~18頁

 「倭人は混成文化の持主」

 では倭人はなぜ、

 当時としては信じられないような測量ができたか?

 本当にそんな国文明をもっていたのであろうか?

 それは一体、どうして得られた知識であったのか?

 この疑問に対する答えは倭人伝の中にもありそうである。

 それにほ倭人の習俗や生活、習慣、産物などが、

 簡潔にではあるが、豊富に記録されている。

 また視点をかえてみると今や定説化している

 「北方騎馬民族説」がある。

 日本人の先祖が朝鮮半島を経て移住した北方人であるのなら、

 その知識は北方人の知識だったことになる。

 このことを頭において、倭人伝の記事のうち、

 その文明の由来を教えてくれるものがないか、

 幾つか検討してみることにしよう。

 「田」

 倭の筆頭にあげられた対馬以下、田について記載がある。

 良田がないので船で南北へ米や穀物を買い出しに行くとある。

 このことは倭人が北方騎馬民族ではないことを証明している。

 北方人は遊牧民で乳肉が主食であり田は作らない。

 倭人が魚介や海藻を食べるということと共に、

 東南アジア系の食習慣の持主であることを証拠立てている。

 「文身」

 入墨の習慣も南方系のもので、

 倭人伝ではそれが中支系のものであろうと書いている。

 「蚕桑」

 カイコを飼って絹織物を織っているのも、

 北方の毛皮を着る人々のものではない。

 これは衣服の描写や、牛馬も羊もいないという記事と共に、

 遊牧民ではないことを証明している。

 はだしの習慣も南方人である。

 「朱丹」

 倭人は赤土を、中国人の白粉(おしろい)のように使うとある。

 これはインドで今でもみる習慣で色絵具で手足に模様を描いたり、

 マレー語圏で顔などに赤土をぬったりする風習と同じである。

 これらはすべて、倭人が南方系であることを、

 はっきり証明しているというほかない。

 「喪」

 死者があると十余日喪に服し、肉類を食べない。

 これは見すごされているが、大きな問題を含んでいる。

 なぜなら、喪に服して肉食をしない、

 というのは仏教徒の教義に従っていることを示すからである。

 私たちがよく知っている精進料理しか食べないということは、

 これまで6世紀ごろに

 百済から始めて仏教が伝わったとされてきた考えと

 食いちがうように思われ、拒否反応があると思うが、

 はつきり明記されているのである。

 これも倭人はインド系か、

 それに近い南方人だったことを示すものといえる。

 「搏手」 

 長上に会うと手をうって敬意をあらわす。

 今では神を拝む際だけに残っているが、

 倭人伝が嘘を書いていない証拠といえる。

 合掌の一種で、やはりインド系の習慣である。

 「一夫多妻」

 この習俗は現在では回教徒の間に広く見られるが、

 回教が生れたのは7世紀で、

 それ以前のアラビアの習慣をうけついだものであり、

 倭人はインド西部からアラブにかけての慣習を 

 もっていた可能性がある。

 「土下座」

 一般人が長上に会うと土下座をして敬意をあらわす、

 という別の表敬法も記録されている。

 これもインド系の人々のほかに

 アラブ系の人々が多いことを物語っている。

 中国系は立礼で土に手をつく土下座はアラブ系だけである。


 「殉葬」

 卑弥呼を葬ったとき、男女百余名を一緒に葬ったとある。

 これは垂仁紀にも殉死記事があるのと支え合っている。

 この慣習は古くはメソポタミアにあり、

 やや下つて中国の殷(商)にもみられる。

 こうみてくると、倭人は広くアジア全域につながりがあるが、

 ことにインドを中心にした南国慣習がみられ、

 大和か九州かといった浅薄な対象でほなく、

 もっと国際的な広い視野が必要なことを示している。

 「持衰(じすい)=行路安全祈祷者」を殺し、

  犯罪者の宗族を滅ぼす等という記録は、
 
  全て仏教ではなくシンドゥ教で、

  この記事は邪馬壹国私立後の国情を、

  張政が記録したものであって、

  卑弥呼時代のものではない。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

0 件のコメント:

コメントを投稿