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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々
―西方絹貿易商人たちの居留地―
阿曇・安曇(106)『日本書紀』講義と解釈②
釈日本紀
『釈日本紀』巻第一開題
〈日本國 倭國〉
(1)弘仁私記序曰
a日本國 自大唐東去万餘里 日出東方 曻于扶桑 故云日本
b古者謂之倭國 但倭義未詳 或云 取稱我之音 漢人所名之字也
c通云山跡 山謂之邪麻 跡謂之止
(2)問 倭字之訓 其解如何
答 延喜説 漢書晋灼如淳各有注釋 然而揔無明訓字 今案
諸字書等中 又指無訓讀
東宮切韻曰 陸法言云 烏和反 東海中女王國 長孫納言云
荒外國名 薩珣云
又於危反 順[白の下にハ] 孫愐云 從[白の下にハ]
東海中日本國也
玉篇曰 於爲反 説文云 順[白の下にハ]詩云 又爲禾反 國名
(3)問 唐國謂我國爲倭奴国 其義如何
答 師説 此國之昔到彼國 唐人問云 汝國之名稱如何 自指東方答云
和加(奴)國耶 云々 和奴猶言我國 自其後謂之和奴國
或書曰 筑紫之人隋代到彼國 稱此事
又問 若然者 和奴之号起自隋代歟
答 此号非隋時 然則或書之説未爲全得
(4)問 大倭 和奴 日本 三名之外 大唐別有稱此國之号哉
答 師説 史書中耶馬臺 耶摩堆 (邪靡堆) 倭人 倭國
倭面等之号甚多 伹史官所記 只通音而曰更無他義
(5)又問 倭面之号 若有所見哉
答 後漢書云 孝安皇帝永初元年冬十月 倭面國遣使奉獻
註曰 倭國去樂浪万二千里 男子皆點面文身
以其文左右大小 別尊卑之差
(6)問 邪馬臺 邪摩堆 (邪靡堆)之号 若各有心哉
答 師説 雖有三号 其義不異 皆取稱倭之音也
〈本朝号耶麻止事【日本倭國(同)号之】〉
※( )内の字はそのように訂正すべきと思われるもの。
(7)弘仁私記序曰
d天地部判 泥濕未乾 是以栖山往來 因多蹤跡 故曰耶麻止
又古語謂居住爲止 言止住於山也
(8)延喜開題記曰 師説
d大倭國 草昧之始 未有居舍 人民唯據山而居 仍曰山戸
是留於山之意也
又或説云 開闢之始 土濕而未乾 至于登山 人跡著焉 仍曰山跡
(9)問云 諸國人民倶據山而居耶 將只大和國人民猶(獨)據山耶
説云 大和國猶(獨)有此事
※国史大系では( )内の字となっている。
『釈日本紀』巻第十六 秘訓一
〈日本書紀巻第一〉
(10)私記曰
d天地部判 泥濕未乾 是以栖山往來 囙多蹤跡 故曰山跡
山謂之邪麻 跡謂之止
又古語謂居住爲止 言止住於山也
(11)問 書字乃訓於不美止讀 其由如何
答 師説 昔新羅所上之表 其言詞太不敬 仍怒擲地而踏
自其後訓云不美也
今案 蒼頡見鳥踏地而所往之跡作文字 不美止云訓依此而起歟
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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