2014年8月11日月曜日

阿曇・安曇(96)漢書の海洋交易網

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
    ―古代世界における海洋交易の実相―

 阿曇・安曇(96)漢書の海洋交易網

 「漢書の海洋交易網」527~530頁

 山海経は朝鮮の近くにインドのような国

 あるいはインド人の国があるといっている。

 とすると、インド亜大陸と朝鮮のある東アジアとの行き来が

 紀元前後に実際あったとの推測が出てくる。

 まず漢の史料にその海路についての当時の情報が記載されている。

 『漢書地理志』がその史料で「粤国」に続いて延べられている。

 粤は越と同義で漢の時代には南シナ海に面する地域で、

 前漢時代の紀元前111年には

 現在のベトナムのホイアンには南郡を置くなど勢力を伸ばした。

 『漢書地理志』は紀元2世紀の著述とされている。

 その海路の解説部分を

 東洋文庫の「漢書食貨・地理・淳洫」から転載するが、

 合浦及び徐開は広東省の雪洲半島の境で

 儋耳(たんじ)と珠厓(しゅがい)は

 海南島の港町(郡名)である。

 海南島も紀元前111年に漢によって属州とされた。

 ※出典:「漢書食貨・地理・淳洫」

 合浦や徐開から南に海に出ると大きな洲に出会う。

 東西南北一辺が千里もあり、

 武帝の元封元年、攻略して儋耳・珠厓両郡とした。

 住民は大風呂敷のような一枚の布を身につけ、

 真中に穴をあけてそこから頭を出す。

 男子は農耕を行い、禾稲や紵麻を種え、

 女は蚕を飼って機を織る。(中略)

 元帝の時代とうとうここを放棄した。

 日南郡の陣塞や徐開、合浦から

 五ヶ月ばかり行くと都元国がある。

 また船で四ヶ月ほどで邑盧没国があり、

 さらに二十日あまりで諾離国がある。

 そこから陸路十日あまりで夫甘都盧国に達する。

 夫甘都盧国から船で二ヶ月以上行くと黄支国で、

 住民の習俗は珠厓とほぼ似通っている。

 その洲は広大で人々も多く珍しい物が多い。

 武帝時代より、いずれも貢物を携えて来見した。

 訳長がいて黄門に属し、募集に応じた者とともに船出して

 明珠、辟流璃、宝石や珍奇な品物を購わんと、

 黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた。

 行く先々の国々では、食事に女性が侍り、

 蛮来の商船がリレー式に運んでくれる。

 だが、取引の利益をめぐって、掠められたり、

 殺されることもあり、風波に悩まされて溺死したりする。

 さもなくば数年たって帰国し、周囲二寸もある珠国をもちきたる。

 平帝の元始年間、王莾が政権をにぎり、

 その威徳を輝かそうと黄支国に莫大な贈物をもたせ、

 生きた犀を献上するよう使者を遣わした。

 黄支から船で八ヶ月ほどで皮宗に到着し、

 さらに海路二ヶ月で日南象林地方に到着するといわれる。

 黄支の南に巳程不国があるが、漢の訳使はそこで引き返す。


 「漢書の海洋交易網」530~533頁

 (1)都元国(日南郡、徐開発、合浦から海路五ヶ月ばかり)

    シンハラ国(現スリランカ)の港 Dehiwala と考えられる。

    サンスクリット語で名の Tamaraparna 

    ギリシャ語名で Taprobanes として知られた。

 (2)邑盧没国:ゆうろぼっこく(都元国から船で四ヶ月ほど)

    インド亜大陸西海岸、古代名 suroarka (港町)に比定される。

    Sur は美称でパラカに対応するが、現在のムンバイ、

    かってボンベイといわれた市近くの港 Alibog が

    そのの遺称とみられる。

 (3)諶離国:しんりこく(邑盧没国より船で二十日あまり)

    surat のことで、紀元2世紀頃は sura-shila と呼ばれた。

    諶離は shila の音写と考えられる。

 (4)夫甘都盧国(諶離国から陸路十日あまり)

    当時ペルシャを支配していた

    ぺルチア王国の首都 Hecatonpylos のことである。

    同市は内陸カスピ海の南東に位置する。

    インドの sura-shila から陸路で十日では到達できない。

    その表記に「十日」あるいは

    「何十日」などの誤写か欠字があるとみられる。

 (5)黄支国(夫甘都盧国から船で二ヶ月以上)

    船で二ヶ月以上行くとは、

    ヘカトンピロスからカスピ海の東岸から船出して西岸にいたる

    旅程を含むものである。

    現在の Bandar-shah から Bandare-Pahlavi 方面の水上交通は

    現在においても重要な航路である。

    黄支は紀元2世紀当時ローマ帝国の支配下にあった

    Antiochiya のことで、

    現在の Antakaya を指すとみられる。

    黄支は iochi- の音写である。

    漢書大究列伝では「条枝」と表記される。

    これはアンチオキアに主都を置いていた

    セレウコス Seleuucos 朝名の転訛である。

    同市はローマの東方支配の拠点都市であった。

    ヘカトンピロスからカスピ海の水路と陸路を合わせての行程と

    解釈される。

 (6)巳程不国(黄支の南)
    
    巳程不(いてふ)と解釈すれば Egypt の音写と考えられる。

    巳程不(きていふ)ないし巳程不(していふ)と読めば

    Kithem (旧約聖書創世記に出る)Sidon に対応し、

    地中海東岸の貿易港となるが確定は難しい。

 (7)皮宗(黄支から船で八か月ほど)

    アンチオキアから陸路で紅海あるいはペルシャ湾に出て、

    海路船で東方へ向かう行程と考えられる。

    紀元2世紀頃の主要海路は紅海を経て

    ローマとインド西海岸を結ぶものであった。

    皮宗は当時のインド亜東岸の港町 Pitha-puran である。

    紀元2世紀は後漢の時代である。

    大秦王安敦

    (ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、

     その献貢物品の内容から疑問も出されている)

    の使節がやって来たのは166年のことで、

    東西の海路による交流が盛んになった時代である。

    漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて

    航海に出たとの記述は重要である。

    この地理志の西方に関する情報は、

    後漢の商人や朝廷にも西方への海路情報が

    かなり入ってきていたことを示すものである。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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