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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
―古代世界における海洋交易の実相―
阿曇・安曇(96)漢書の海洋交易網
「漢書の海洋交易網」527~530頁
山海経は朝鮮の近くにインドのような国
あるいはインド人の国があるといっている。
とすると、インド亜大陸と朝鮮のある東アジアとの行き来が
紀元前後に実際あったとの推測が出てくる。
まず漢の史料にその海路についての当時の情報が記載されている。
『漢書地理志』がその史料で「粤国」に続いて延べられている。
粤は越と同義で漢の時代には南シナ海に面する地域で、
前漢時代の紀元前111年には
現在のベトナムのホイアンには南郡を置くなど勢力を伸ばした。
『漢書地理志』は紀元2世紀の著述とされている。
その海路の解説部分を
東洋文庫の「漢書食貨・地理・淳洫」から転載するが、
合浦及び徐開は広東省の雪洲半島の境で
儋耳(たんじ)と珠厓(しゅがい)は
海南島の港町(郡名)である。
海南島も紀元前111年に漢によって属州とされた。
※出典:「漢書食貨・地理・淳洫」
合浦や徐開から南に海に出ると大きな洲に出会う。
東西南北一辺が千里もあり、
武帝の元封元年、攻略して儋耳・珠厓両郡とした。
住民は大風呂敷のような一枚の布を身につけ、
真中に穴をあけてそこから頭を出す。
男子は農耕を行い、禾稲や紵麻を種え、
女は蚕を飼って機を織る。(中略)
元帝の時代とうとうここを放棄した。
日南郡の陣塞や徐開、合浦から
五ヶ月ばかり行くと都元国がある。
また船で四ヶ月ほどで邑盧没国があり、
さらに二十日あまりで諾離国がある。
そこから陸路十日あまりで夫甘都盧国に達する。
夫甘都盧国から船で二ヶ月以上行くと黄支国で、
住民の習俗は珠厓とほぼ似通っている。
その洲は広大で人々も多く珍しい物が多い。
武帝時代より、いずれも貢物を携えて来見した。
訳長がいて黄門に属し、募集に応じた者とともに船出して
明珠、辟流璃、宝石や珍奇な品物を購わんと、
黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた。
行く先々の国々では、食事に女性が侍り、
蛮来の商船がリレー式に運んでくれる。
だが、取引の利益をめぐって、掠められたり、
殺されることもあり、風波に悩まされて溺死したりする。
さもなくば数年たって帰国し、周囲二寸もある珠国をもちきたる。
平帝の元始年間、王莾が政権をにぎり、
その威徳を輝かそうと黄支国に莫大な贈物をもたせ、
生きた犀を献上するよう使者を遣わした。
黄支から船で八ヶ月ほどで皮宗に到着し、
さらに海路二ヶ月で日南象林地方に到着するといわれる。
黄支の南に巳程不国があるが、漢の訳使はそこで引き返す。
「漢書の海洋交易網」530~533頁
(1)都元国(日南郡、徐開発、合浦から海路五ヶ月ばかり)
シンハラ国(現スリランカ)の港 Dehiwala と考えられる。
サンスクリット語で名の Tamaraparna
ギリシャ語名で Taprobanes として知られた。
(2)邑盧没国:ゆうろぼっこく(都元国から船で四ヶ月ほど)
インド亜大陸西海岸、古代名 suroarka (港町)に比定される。
Sur は美称でパラカに対応するが、現在のムンバイ、
かってボンベイといわれた市近くの港 Alibog が
そのの遺称とみられる。
(3)諶離国:しんりこく(邑盧没国より船で二十日あまり)
surat のことで、紀元2世紀頃は sura-shila と呼ばれた。
諶離は shila の音写と考えられる。
(4)夫甘都盧国(諶離国から陸路十日あまり)
当時ペルシャを支配していた
ぺルチア王国の首都 Hecatonpylos のことである。
同市は内陸カスピ海の南東に位置する。
インドの sura-shila から陸路で十日では到達できない。
その表記に「十日」あるいは
「何十日」などの誤写か欠字があるとみられる。
(5)黄支国(夫甘都盧国から船で二ヶ月以上)
船で二ヶ月以上行くとは、
ヘカトンピロスからカスピ海の東岸から船出して西岸にいたる
旅程を含むものである。
現在の Bandar-shah から Bandare-Pahlavi 方面の水上交通は
現在においても重要な航路である。
黄支は紀元2世紀当時ローマ帝国の支配下にあった
Antiochiya のことで、
現在の Antakaya を指すとみられる。
黄支は iochi- の音写である。
漢書大究列伝では「条枝」と表記される。
これはアンチオキアに主都を置いていた
セレウコス Seleuucos 朝名の転訛である。
同市はローマの東方支配の拠点都市であった。
ヘカトンピロスからカスピ海の水路と陸路を合わせての行程と
解釈される。
(6)巳程不国(黄支の南)
巳程不(いてふ)と解釈すれば Egypt の音写と考えられる。
巳程不(きていふ)ないし巳程不(していふ)と読めば
Kithem (旧約聖書創世記に出る)Sidon に対応し、
地中海東岸の貿易港となるが確定は難しい。
(7)皮宗(黄支から船で八か月ほど)
アンチオキアから陸路で紅海あるいはペルシャ湾に出て、
海路船で東方へ向かう行程と考えられる。
紀元2世紀頃の主要海路は紅海を経て
ローマとインド西海岸を結ぶものであった。
皮宗は当時のインド亜東岸の港町 Pitha-puran である。
紀元2世紀は後漢の時代である。
大秦王安敦
(ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、
その献貢物品の内容から疑問も出されている)
の使節がやって来たのは166年のことで、
東西の海路による交流が盛んになった時代である。
漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて
航海に出たとの記述は重要である。
この地理志の西方に関する情報は、
後漢の商人や朝廷にも西方への海路情報が
かなり入ってきていたことを示すものである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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