2014年4月5日土曜日

短期間にすぎなかった「国号・ヤマト」時代


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:18頁

 ヤマトの歴史は古い。

 大学講義録9などでお話ししたように、

 それは古代バビロニヤからきた。

 でもそれが「国号」として採用されたのは、

 718年に発布された『養老律令』以後である。

 さらに注意がいるのは、

 大和説が使う「大和」の文字は、

 752年に奈良大仏の開眼供養に合わせて、

 孝謙女帝が国号を元の「ウワ」に戻し、

 その当て字として採用したものであって、

 ヤマトと読まれたのではなかった。

 「ヤマト朝廷」が存在したのは

 718年から752年までの34年間にすぎず、

 その間(かん)にも聖武天皇が遷都を繰り返して、

 都は奈良に定着していない。

 例えば室武天皇が

 「大養徳恭仁(くに)大宮」と命名した恭仁京(くにきょう)は、

 今の京都府相楽(そうらく)郡加茂(かも)町にあったが、

 在来の学者は皆この「大養徳」を「オオヤマト」と教えてきた。

 しかしこの恭仁京は中央を木津川が二分していた。

 木津川は下流で宇治川や桂川と合流して淀川になる長流で、

 その合流点が作る木津川沿いの大デルタは、

 今の京都府久世(くぜ)郡の久御山(くみやま)町、

 改名以前は競馬場のある

 「淀(よど)」として全国的に有名だった町である。

 木津川の古名は淀川で、

 養徳というのは「中央に淀のある都」以外考えられない。

 大養徳は大淀で「オオヨド」への当て字だったのである。

 地名は区別のためにつける。

 本来のヤマト・平城京が奈良に併存していた当時なのだ、

 ヤマトが幾つも出来てはヤヤコシくて、

 天皇自身が我慢(がまん)できないのである。

 《短期間にすぎなかった「国号・ヤマト」時代
 「短期間にすぎなかった「国号・ヤマト」時代

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