2014年4月12日土曜日

サカ→サタが解いた「銅鐸・出雲大量出土」の謎と答


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:25頁

 その銅鐸が、1996年に島根県大原郡加茂町の岩倉で計38個出土した。

 これは滋賀県野洲(やす)町大岩山の記録24個をはるかに超え、

 簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町神庭(かんば)荒神(こうじん)谷で

 銅剣358本と共に出土した6個とで計44個、

 全国の出土数約500個の9%を占めた。

 分布中心地の大阪から遠く離れた出雲で、

 なぜ大量に出土したのか?。

 当時諸説があったが定説はなく5年後の今も謎のままである。

 この謎も「サカ~サタ]の歴史を知る私たちには、

 すでに京都府のサガから

 出雲のサタへ大移動した痕跡の確認によって、

 すべて納得のいく史実になっている。

 出土地の大原・加茂・岩倉も

 全て嵯峨(サガ)と同じ京都市北部の地名と重なり、

 私たちの着眼点の正しさを保証する。

 それはさらに大学講義録34:24の地図でも、

 三河(愛知県)の小坂井というサカが新たに銅鐸史に加わった。

 これも仏教遺跡であることは動かない。
 
 なぜなら銅鐸出土だけでなく、

 三河という文字は

 「サカ」への当て字であり「サンガ」という発音もある。

 仏教ではサンガは「僧伽(サンガ)」と当て字されるパーリ語で、

 「Sanga 僧団・教団」のことである。

 また僧伽の当て字はそのまま「ソガ」でもある。

 蘇我の馬子と完全に重(かさ)なる聖徳太子の、

 倭(ウワイ)国・推古女帝政権が周知の仏教政権だったのと同じく、

 仏教を国教とした徳川氏が、

 この三河出身であることもまた決して偶然ではなく

 弥生ウッタラ政権の遺物だったのだ。

 出雲だけが例外ではありえない。

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