2014年4月1日火曜日
「女王国は伊都国の南」を熟知していた張政
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録34:14頁
梯儁が書いた報告書は伊都国より遠方は知らず、
また知る必要もなかった。
滞在の期間も短く、
その任務も卑弥呼に皇帝からの下腸品を
手渡しさえすればよかった。
現在でいえば梯儁は、
「書留郵便物の配達局員」か、
宅配便の配達社員に過ぎなかったからである。
一方張政は卑弥呼の要請をうけて、
狗奴国男王との不和の調停に派遣されて来たのだから、
それさえ済めば直ぐ帰れるはずだった。
ところがこその時、倭人連邦の首都は、
伊都国から速く離れた巴利国へ移っていたから、
彼は卑弥呼に会うこともできず、
調停用の黄幢(皇帝の命令を意味する黄色い旗)と皇帝の詔書と、
彼が手書きした手紙を、
出迎えた率善中郎将・難升米に渡して持って行かせた。
だが調停は容易に成立せず、すぐ帰るわけに行かなかったから、
遠く離れた新都の巴利国から届く、
成り行きの報告を待ちながら滞在していた。
その間(かん)に書き綴ったのが
『倭人調査報告書』としての『倭人章』の細部だったのである。
『魏書倭人章』の
「女王国以北、特に一大率を置く」それは「伊都国に治す」、
「郡から倭国への使者も皆、
津に臨んで捜露し……文書や賜遺物は伝送して女王に至る」
というのは、
張政が自身体験した報告であり、
女王国が伊都国の津=港=牛津より南にあったことも重ねてわかる。
「南、邪馬壹国」を東の誤りとする以外、
成立しない大和説は余りにも駄目だ。
《「女王国は伊都国の南」を熟知していた張政》
「「女王国は伊都国の南」を熟知していた張政」
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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
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