2014年4月4日金曜日

ヤマトが奈良の代名詞として定着したのは8世紀


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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:17頁

 だがそれだけではない。

 旧『唐書』の長安3年(703年)、

 初めて「日本(ニッポン)」の大臣・粟田(あわたノ)真人(まひと)が

 唐へ使いした時まで、

 唐からみた我が列島の支配者は「倭国」だったのだから、

 この703年(文武天皇・大宝3年)以前の40代もの天皇たち全員が、

 仁徳天皇から雄略天皇までの5天皇と同じく、

 邪馬台国大和論者や畿内論者によって否定されているのである。

 彼らは倭国も日本もどちらも

 「ヤマト」と読むのだと主張するしかないのである。

 だが旧『唐書』いま倭(ワ)国と日本国を、

 離れた位置に存在した全く別々の国だと、

 その大きさと地理条件の違いを挙げて、

 はっきり書き分けている。

 それが、それぞれどこにあったかも本書で許しく確認した。

 だから倭国も日本国も区別せずに、

 ヤマトと読むようになったのは、

 一つの国に併合した後のことだということ位(ぐら)い、

 子供にでもわかる。

 併合前にはヤマトなどという国は列島内にはなく、

 倭はウワイ、

 日本はクマソまたはヒノモトと発音されていた。

 ハヤト(海人)と

 ヤマト(山人)というのは宗教と職業による区別で、

 後のヤマトという名も、

 海を生活基盤にしている人々が、
 
 陸上生活者たちを指して呼んだ名にすぎない、

 国とは無関係に人々を区別した名で、国号ではない。

 天武天皇が政権を握った後、

 次第に奈良が

 「山人(ヤマト)(政権)の国」と認識されて地名化し、

 8世紀以後に、やっと定着したのである。

 《ヤマトが奈良の代名詞として定着したのは8世紀
 「ヤマトが奈良の代名詞として定着したのは8世紀

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 《参考:年表・資料》 

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