2014年4月28日月曜日

阿曇・安曇(5)対馬


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(5)対馬

 「カツ」kit:県

  上縣郡「カンツアカタノ」「カムツコホリ」

  下縣郡「シモアカタノ」

  県・縣「アカタ」 ia-ka-tu [石-門-入口]、

          na-ka-tu [石-門-入口]と同義

  ※この「県」を国郡制に係わる「県:あがた」(県主:あがたぬし)の

   「アガタ」とする見解が一般的。

 但し、「縣・県」はまた「カタ」と訓まれる。

  「延喜式」民部 河内国 大縣郡「ヲホアカタ」

  「延喜式」神名帳 河内国 大縣郡「オホカタノ」

  「カタ」kit〔葦のむしろ(マット)〕

  ※対馬嶋全域においての地名には「アカタ」より「カタ」の方が

   多くみられ、「県・縣」は"kit"に由来していることを示している。

   上県郡上対馬町 河内:こうち、琴:こと、比田勝:ひた

   下県郡豊玉町 和板:かいた、加藤:かとう

      厳原町 久田:くた

      美津島町 鶏知:ケチ

    〇特に鶏知は雞知、慶知、介智、介地、介知、桂地とも書かれ、

     「ケチ」の中心的役割をなしている。
      
   上県郡峰町賀佐:かさ 「海東諸国紀」に仇知只浦、仇知「キチ」kit

 対馬の海神を祭る神社

 〇「延喜式」神名帳 對馬嶋

  上縣郡 和多都美神社:名神大 (現)峰町佐賀

      和多都美御子神社:名神大「ミコ」 (現)峰町木崎海神神社

      胡禄神社「コロク」 (現)上対馬町琴 

       ※「胡禄」対馬方言で「シコ」という。

      胡禄御子神社「コロクノ」 (現)上対馬町琴 

  下縣郡 和多都美神社:名神大「ワタツミノ」 (現)豊玉町仁井字和宮

       (祭神)彦火火出見尊、豊玉姫命

      和多都美神社「ワタツミノ」 (現)

      敷嶋神社「シキシマノ」

 〇現在の海神を祭る神社(全国神社名鑑)

  上縣郡 海神神社(峰町木崎<坂>、わだずみ神社)

       (祭神)豊玉姫命、彦瀲武鸕鷀草葺不合尊、彦火火出見尊、

          宗像神道主貴神

      和多都美神社(峰町佐賀)

      志古島神社(上対馬町泉)

      胡簶神社(上対馬町琴)

      胡簶御子神社(上対馬町琴)

  下縣郡 豊和多都美神社(厳原町椎根)

      乙和多都美神社(厳原町久知)

      大吉戸神社(美津島町黒瀬)

      和多都美神社(美津島町根詰)

      海祇神社(豊玉町仁井)宇和宮 

       (祭神)彦火火出見尊、豊玉姫命

      和多都美神社(豊玉町仁井)

      志古島神社(豊玉町和坂)

      胡簶島神社(美津島町鴨居瀬)

  ※志古島、志古嶋、胡簶島は「シコ-島」にて「志賀島」と係わる。

   胡禄、胡簶は「やな」で竹や葦で編んだ

   魚などを捕るための容器で、これを対馬では「シコ」とぃう。

   「敷嶋」名も同類で「シコ、シカ」 に同じ。

   Sug、suku 〔神域〕。つまり、ここは「神聖な嶋」の語義となる。

  ※「シコ」胡禄・胡簶

  "やなぐひ"矢を入れ背に負う道具=矢籠・尻籠

  "しこ"胡簶・箙(えびら)の別名

 豊玉「トヨタマ」(対馬・長崎県下県郡豊玉町)

  (Sk.)toya-dhāman 海の住者・海神=toya-dhāma toya[海、海の]

     dhāman-dhāma[超人的存在] 

     dhāman 住居、(神々の) 領土、法律、規則、習慣

     dyu-dhāman 天上の住者、神=dyu-dhāma

  ※「トヨタマ」はサンスクリット語による「海神」の語義で

   「ワタツミ」と同義にして 

   また、豊玉姫・綿津見神は同神とすることができる。

 和多都見神社:長崎県下県郡豊玉町仁井字和宮(かづみや)

  (祭神)彦火火出見尊、豊玉姫命

  「延喜式」神名帳 對馬嶋 下縣郡 和多都見神社:名神大「ワタツミノ」

  社伝(由緒書<日本の神々・神社と聖地・一九州>)

   当社は海宮も古跡なり、

   上古海神豊玉彦命此の地に宮殿を造り玉ひ、

   御子に一男二女ありて、一男を穂高見命と申し、

   二女を豊玉姫命・玉依姫命と申す。

   或時、

   彦火火出見命失せし鉤を得んと上国より下り玉ひ、

   此の海宮に存す事三年にして、

   終に豊玉姫を娶り配偶とし玉ふ。

   良有て鉤を得、又上国に還り玉ふが故に、

   宮殿に配偶の二神を斎き奉りて和多都美神社と号す。

   又社殿を距る凡二十歩にして

   豊玉姫の山陵及び豊玉彦の墳墓あり。

   寛文年中洪浪の為に神殿悉く流れて

   神体のみ渚に寄り来れるが

   故に、住吉の棟札なく勧請年月不祥。

 「全国神社名鑑」

  上代の海宮とは対馬をいい、当社はその海宮の神跡である。

  延喜式神名帳所載の和多都美名神大は当社のことである。

  清和天皇貞観元年従五位上に、

  ついで永徳元年従一位に進階した。

  社頭に山陵があり、

  社殿は海上に浮かんで綿津美の宮の観がある。

 和宮「カズの宮」=和多:kit〔葦のむしろ(マット)〕

 仁井「ニイ」 

  na-ia [岩-石]:磯良エベス<社前の渚にある聖なる霊石> 

 海神神社(峰町木坂<わだずみ神社>)祭神 彦瀲武鸕鷀草葺不合尊

  瀲武「ナギサ-タケ」 瀲=渚、

   「タケ」 du₆-ku₃〔岡(塚)-聖なる:塚〕

  ※これは「磯良エベス」を指す。

  長岡冢 「ナガ」 na-gal 〔岩-大きい(長い)〕 

  「ナガ岡」〔大きい岩(石)の岡〕

 磯良「イソラ」「イソ」: esi 閃緑岩

  (日本語)"いし"「ラ」:la 鱗(うろこ)>「イソラ」魚鱗の石

  エビス ap-su 海、地水 

 ◎「イソラエビス」海の鱗石

2014年4月27日日曜日

阿曇・安曇(4)志賀島


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(4)志賀島

 ※志賀島(東区)
  「地図」志賀島

  島の大部分は「平尾花崗閃緑岩」を主体とする深成岩類からなり、

  2系統の断層により、ほぼ平行四辺形の一種の地塁となる。

  史跡に富む景勝地で、島全体を神域とし、

  『万葉集』以来歌枕として著名。

  地名の由来は「近島」の転訛だという『続風土記』。

  古代は粕屋郡に中世・近世は那珂郡に属したが、

  明治15年再び粕屋郡に属した。

  志賀海神社の神殿の後の山を「勝山」といい、

  これに続く御笠山・衣笠山を志賀三山という。

  島中が神功皇后の伝説で覆われている。

  産土神は志賀海神社。

  志賀海神社の歩射祭・山ほめ祭・神幸祭はよく古式を伝えている。

  〔閃緑岩:(シュメル語)esi:(日本語)"いし"〕

 「古代」

  志賀島は奈良期からみえる地名。

  筑前国粕屋郡のうち。

  『釈日本紀』の引く『筑前国風土記』逸文に

  「粕屋の郡、資珂島」とみえ、

  気長足(そなかたらし)姫尊(神功皇后)がこの島に宿泊した時、

  火を求めにやった小浜という陸続きが

  此の島と打昇の浜と近く相連接けり。

  殆ど同じき地と謂ふべし。

  と報告したことにより近島と名付け、

  それが訛って「資珂島」となったという地名説話を載せている。

  天明4年当地で金印が発掘されたことは著名。

  発見場の叶が崎には現在金印公園があり、記念碑が建つ。

  『日本書紀』神功摂政前紀には「磯鹿海人」がみえるが、

  海の中道製塩遺跡は製塩・漁業を中心とする志賀海人の集落跡。

  ―志賀の白水郎をはじめ半島のことについては

  『万葉集』に

  「志賀乃白水郎」

  「四可能白水郎」

  「之賀之安麻」

  「壮鹿海部」

  「志賀万山」

  「志賀村」

  などとみえ、以後種々の歌集に散見する。

 ※勝馬(東区)

  地名の由来は、

  神功皇后が当地に凱旋したことによるという『続風土記』。

  古くから漁業は行なわず農業のみに従事した。

  産土神は近世まで勝馬神社(沖津宮)。

  明治期頃からは志賀海神社。

  海岸の磯を俗に「お膝本」または「磯良ヶ崎」といい、通船の難所。

  近世、勝馬村、於止の神は乳師ともいい、

  乳汁の乏しい婦女がこの神に祈れば効験があり、

  報賽に柄杓を奉納するという。

  牧谷社は牧ノ内ともいい、香椎明神が馬を飼った所といい、

  太刀打社は香椎宮の太刀を作ったところという(続風土記付録)。

  ほかに、

  志賀明神の旧跡という中津宮・御雷玉神社および禅宗西福寺が

  あった(続風土記)。

 ※宇美:うみ(宇美町)

  古くは「蚊田(かだ)邑」といった。

  宇美の地名は神功皇后が

  この土地で応神天皇を産んだという伝説に由来する。

  その産んだ地が宇美に八幡宮のある所としている。

  従って、宇美八幡宮のは安産の神で、

  その創建は6世紀後半と伝える戦国期の文書があるが不詳。

  「古代」

   奈良期からみえる地名。

  『古事記』に神功皇后が

  「筑紫国に渡りまして、其の御子は阿礼座しつ。

   故、其の御子の生れましし地を號けて宇美と謂ふ」とあり、

  『日本書紀』は「宇瀰」、

  『筑前国風土記』逸文は「宇温野」とする。

  この地名説話は以後、

  『釈日本紀』『皇代記』『日本紀略』などにも受け継がれ、

  『源平盛衰記』43巻にもみえている。

 ※須恵(須恵町:すえ)

  地名は古代の須恵器生産に由来すると考えられており、

  若杉山中腹に8世紀のものとみられる

  須恵器窯跡が見つかっている。

  中世、須恵荘南北朝からみえる荘園名。

 ※蚊田:かだ(宇美町)

 「古代」

  蚊田、平安期にみえる地名。筑前国のうち。

  『先代旧事本紀』応神天皇条に

  神功皇后が「討新羅元年歳次庚辰冬十二月生筑紫之蚊田」とあり、

  『日本紀略』や「皇代記」(郡書3)も同様の記述を踏襲している。

  記述にみえる神功皇后出産地の宇美は粕屋郡宇美町宇美に鎮座する

  宇美宮に比定されており、

  宇美の地が蚊田と呼ばれていたことが知られる。

 ※香住ヶ丘(東区)

  もとは福岡市浜男、唐原の各一部、町名の由来は

  この付近の字名霞ヶ丘と香山にちなむ。

 ※糟屋郡:かすやぐん

  糟屋郡、糟屋、糟谷、滓屋とも記される。

  古代~現在の郡名。

  筑前国及び福岡県の郡の一つ。

  「和名類聚抄」では「加須也」と記しており、

  その訓は「かすや」であろう。

  京都妙心寺の梵鐘銘に

  「戊戌年(698)四月十三日壬寅収糟屋評造春米連鋳鐘」

  とあるのが郡名の初見。

 〔古代〕

  「和名類聚抄」の郷は

  香椎、志珂、厨戸、大村、池田、阿曇、柞原、勢門の9郷。

  当郡須恵付近に夷守駅があったらしい(延喜式)。

  式内社香椎宮は仲哀天皇を祀ったものといわれるが、

  古来祭神は神功皇后とされ、

  新羅との関係が悪化するごとに朝廷から奉幣便が派遣された。

  神門の前の神、木綾杉は神功皇后が朝鮮出兵から帰還し、

  鎧の袖の杉枝を挿したのが生長したという。

  古代創建を伝える寺社は

  他に志賀海神社、宇美八幡宮、勝馬神社、武内宿禰社、

  若杉神社、天降神社、独鈷寺、清滝寺などがある。

 ※志賀海神社

  祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神。

  海の中道から志賀島へ渡った入口にある

  集落の奥まった山手に位置する。

  付近には縄文時代の遺蹟も存在し、

  当地は古来北九州の海上一帯を中心に「海人」を支配し、

  全国的に活動の跡がみられる「阿曇氏の本拠地」でもあり。

  祭神はこの阿曇氏の祖神とも奉斎神ともされており、

  今日の神主家もこの一族である。

  志賀島大明神を宗像大菩薩御縁起(神道大系神社編宗像)や

  八幡愚童訓(思想大系)は神功皇后の三韓出兵の舵取りをしたと記す。

2014年4月26日土曜日

阿曇・安曇(3)綿津見と豊玉彦


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(3)綿津見と豊玉彦

 綿津見神・少童神「ワタツミ」

 『古事記』綿津見神

 『日本書紀』少童神

 『延喜式』神名帳

 対馬島 上縣郡 和多都美神社【名神大】、和多都美御子神社【名神大】

     下縣郡 和多都美神社【名神大】、和多都美神社【ワタツミノ】

 綿・和多「ワタ」

  (Grk.)βνθοs「buthos」(海の)深み、(一般に)深み、底

               ※zikum-engurに対応

  (Grk.)βνθιοs「buthios」海の、水中の、沈んだ、深い所にある

  (Sk.)pāthas 水、 (Sk.)ud 水

 ※「ワタ」は「深海」あるいは「海」と解釈される。

 津見・都美「ツミ」

  (Sk.)dhaman住居(神々の)領土。

  この用語は「住者」とも解釈される。

  (Sk.)dyu-dhāman「天上の住者」つまり「神」として用いられる。

  (Sk.)toya-dhāman「海の住者」つまり「海神」である。

 ※これは「豊玉トヨタマ」の祖語である。

 ※「ワタツミ」は

   (Grk.)buthios

   (Sk.)pāthasとdhāmanの合成語で

  「海神」を表す。

  ただし、これは後から合成された用法で原初は

  阿曇語によって始まったものと考えられる。

  つまり、dhāmanには、

  『日本書紀』少童神、

  『万葉集』海若と表記された「童」「若」の概念が無い。

 「ツミ」は阿曇語のdumu「子供」を祖語する。

 しかし、阿曇語の「海」に係わる用語は

 上記のengurあるいはa-ab-ba「海」に限られ

 「ワタ」に対応する用語は無い。

 和多は「カタ」と訓むことができる。

  「カタ」kit「葦むしろ(マット)」。

  勝山、御笠山、衣笠山の「カツ」「カサ」

  「カタツミ」kit-dim₃「葦むしろ(マット)作り工」、

  船用の葦むしろ(マット)を作る職工を表す。

  あるいは

  kit dim

  「葦むしろ(マット)-帆柱(マスト)」:

  「帆柱の葦むしろ」=kit dim「葦むしろ-柱)」

 ※阿曇族の祖先は葦を用い船や家屋を作って生活に用いた。

  つまり、豊葦原や中津葦原の概念に結びつく背景がある

  (シュメル時代の生活様式)。

  Ki-en-gi「土地-の-葦=葦原=シュメルを表している」

 ※阿曇族(eš-ma₂)はシュメル人の後裔である。

  「カタツミ」とは、

  そのような阿曇族の祖先が葦船に頼って生活していたことの

  伝承に従い、葦船を神聖視し、崇拝する信仰から始まったもである。

  牧往社(神社)【牧ノ内ともいう】勝馬にある。

  牧の神大明神(福岡市西区能古島)、牧神社(壱岐島郷ノ浦町)

  「マキ」ma₂-gi「船-葦」葦船 勝馬「kit-ma₂」と同義。

 ※文法的にはgi-ma₂「葦-船」

  能古(のこ)島(志賀島の南方、博多湾の島)

  「ノコ」nu5-gur葦の容器、葦船を指す「籠」。

  Gi-ma₂「葦-船」=kit-ma₂「勝馬」「勝間」

  『古事記』上巻神代(海幸彦と山幸彦)火遠理命の海神の宮訪問

  爾に監椎神、「我、汝命の為に善き議を作さむ。」と云ひて、

  即ち无間勝間(まなしかつま)の小船を造り、其の船に載せて、

  教へて曰ひしく、

  「我、其の船を押し流さば、差暫し往でませ、味し御船有らむ。

   乃ち其の道に乗りて往でまさば、魚鱗の如造れる宮室、

   其れ綿津見神の宮ぞ。

   其の神の御門に到りましなば、

   傍の井の上に湯津香木(かつら)有らむ。

   故、其の木の上に座さば、

   其の海神の女、見て相議らむぞ。」といひき。

 『日本書紀』神代下・一書

  老翁の曰さく

  「復な憂へましそ。吾当に汝の為に計らむ」とまうして、

  乃ち無目籠を作りて、彦火火出見尊を籠の中に内れて、

  海に沈む、即ち自然に可伶小汀有り。是に籠を棄てて遊行でます。

  旬に海神の宮に至りたまふ。

  籠「カゴ」gur-gi「容器-葦」、gi-gur「葦の容器」

 ※仁位(豊玉町)

  地名の由来は、

  美しい玉を意味する瓊(に)から仁位になったといわれている

  (津島記事)。

  地内の堂ノ内、貝吹壇、仁位浜などに

  弥生時代~古墳時代の遺蹟がある。

  西の天神山は古代に烽が置かれ、天神神社があった。

  仁位浦の西岸に、

  式内社の和多都美神社に比定される和多都美神社があり、

  社叢は昭和51年県天然記念物に指定された。


 ※鹿見:ししみ(上県町)

  鹿見湾は韓神埼の内側に北向きに開口した良港で、

  西海岸屈指の泊地として知られる。
 
  地名の由来は

  深い山中に鹿が郡をなして満ちていることを訛っていったとか。

  鹿火の意味によるかと伝えられる(津島記事)

  zikum

   「トヨタマ」toya(Sk.)水 〔漢訳〕水、海、蒼溟
    ║    (Sk.)pāthos 水 (Sk.)ud 水
  和多都津見「ワタツミ」 
       dyu-dhāman 天上の住者、神=dyu-dhāma
       dhāma〔超人的存在の一種〕
       toya-dhāman 海の住者、海神〔海に住む神〕=toya-dhāma

  「ワタ」(Grk.)βυθοζ(buthios) 〔海の〕深み、
        ※zikum,engurに対応 ◎渤海

  「ツミ」(シュメル語) dumu 子供、童、少童

  「ワタツミ」海の童、buthios-dumu

2014年4月25日金曜日

阿曇・安曇(2)志賀島・志賀海神社


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(2)志賀島・志賀海神社

 「延喜式」神名帳:筑前国糟屋郡

   志加海神社三座【並名神大】「ウミノ」

 (現)「全国神社名鑑」志賀海神社(お志賀さま)「しかうみ」
     
    福岡県福岡市東区志賀島勝山577

 祭神 底津綿津見神、表津綿津見神、仲津綿津見神

 古事記上巻に伊邪那岐命が

 筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原で禊払いされたとき、

 降臨された神が祭神の綿津見三神である。

 延喜式神名帳下に、筑前糟屋郡志賀海神社三座「並名神大」とある。

 創建は不詳であるが、

 景行天皇12年に、是時禱神は則志賀神とみえているので、

 その当時すでに鎮座されたことを示している。

 万葉集に

 「千早振る鐘の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神」

 と詠まれている。

 また神功皇后が征韓の際には、この三神が船を守り、

 海上の風波をしずめるなど特別の神功があった。

 宮司 阿曇磯興、権禰宜 阿曇磯和

 「シカウミ」 zikum 天空:【□の中に米】:engur 深海、水深 

  【シカミ】

  (Heb.)תִֻכֻמ,THVM,tuikum 地中の深い所、地下水、深淵

 ※「阿曇語」としては「シカウミ」は

  「深海」「深淵」として用いられてもいる。

 「筑前国続風土記」

  此志賀の御神も住吉大神と同時に伊弉諾尊、

  檍が原にて祓除したまひし時、

  化生の神にして、底津少童命、中津少童命、表津少童命の三神なり。

  此三神は三所に跡を垂給ふ。

  底津少童命は則今の志賀の町の北なる本社也。

 ※中津少童命は志賀島の西北勝馬と云う所の濱、

  勝馬明神の社より南に、

  小なる山ありて、中津明神と云う社あり、是也。

  表津少童命は中津明神の社より北一町余に、勝馬明神の社あり、是也。

  此三神は阿曇連等が斎祭る神なりと、日本紀神代上巻にしるせり。

 ※社は志賀の里より北の方なる山のふもとの高き所にあり。

  石階をのぼりゆく。宮所東の方海に臨める高岸にて、其下は則海なり。

  中殿底津少童命、古殿神功皇后、左殿表津少童命。

  神殿の背なる山を勝山といふ。

  是は、皇后三韓より帰らせたまふ時、

  此島に至り、異国に打勝つたまふ事を悦ひし故に名つくと云う。

  御笠山、衣笠山とて、勝山のつつきにあり。

  「志賀島 志賀明神祠」

 ※志賀島全体に聖所が配されている。

  志賀島の「シカ」sug、suku 神域 「志賀島」は「神域の島」

  勝山 「カツ」kit 葦のむしろ(マット)【船の帆として用いられた】

  御笠山「ミカサ」 ma₂-kit

  「船―葦のむしろ」【葦のむしろで作った船】

  衣笠山「エ(イ)カサ」 e-kit「家(屋)―葦のむしろ」
         
   【葦のむしろで作った家、ここでは葦のむしろで作った屋船】

  勝馬(古事記神代に「勝間」とある)「カツマ」kit-ma

        「葦のむしろ―船」で「葦船」を表す。

  阿曇「安曇」「アズミ」 eš-ma₂「家(屋)―船」:屋船

   船を住み処として生活している人々の船

 「延喜式」祝詞・大殿祭

   瑞の御殿【古語にあうかといふ】汐屋船の命に奇し護言を

   手らけく安らけく護りまつる神の御名を曰さく、

   屋船くくちの命【こは木の霊なり】、屋船豊うけ姫の命と~。

2014年4月24日木曜日

阿曇・安曇(1)『古事記』・『日本書紀』


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(1)『古事記』・『日本書紀』

 『古事記』

 伊邪那伎大神詔りたまひし「~」て、

 竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に至りまして、

 禊(みそ)ぎ祓(はら)いたまひき。

 ~初めて中つ瀬に堕り迦豆伎て滌(すす)ぎたまふ時、

 成り坐せる神の名は、~。

 次に水の底に滌ぐ時に、成れる神の名は、底津綿上津見神、

 次に底筒之男神、中に滌ぐ時に、成れる神の名は、中津綿上津見神、

 次に中筒之男神、水の上に滌ぐ時に、成れる神の名は、

 上津綿上津見神【上を訓みて宇閇と云ふ】、

 次に上筒之男神、此の三柱の綿津見神は、

 阿曇連等の祖神と以ち伊都久(いつく)神なり。

 故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、

 宇都志日金折(うつしひかねさく)命の子孫なり、
 
 『日本書紀』

 伊弉諾命、~即ち往きて筑紫の日向の小戸の橘の

 檍(あはき)原にいたりまして、

 禊ぎ除(はら)へたまふ、遂に身の~。

 又海の底に沈(かづ)き濯(そそ)ぐ。

 因りて神を、號けて底津少童命と曰す。

 次に底筒男命、又潮の中に潜(かづ)き濯ぐ。

 因りて生める神を號けて中津少童命と曰す。

 次に中筒男命、又潮の中に浮き濯ぐ。

 因りて生める神を號けて表津少童命と曰す。

 次に表筒男命、凡(すべ)て九の神有す。

 其の底筒男命、中筒男命、表筒男命は、是即ち住吉大神なり。

 底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等が所祭る神なり。

 一書曰、伊弉諾尊と伊弉冉尊と共に大八州国を生みたまふ。

 然して後に~、

 又生めし海神等を少童命と號す。山神等を山祇と號す。

 (上記はこの後段)

 ○神功皇后(摂政前期)氣長足姫尊

  九年秋九月の庚午の朔己卯に、

  諸国に令して、般舶を集へて兵甲を練らふ。

  ~又磯鹿(しか)の海人、名は草を遣わして親しむ。

  日を敷して還りて曰さく。

  「西北に山有り。帯雲にして、横に絚(わた)れり、

   蓋し国有らむか」とまうす。

  愛に吉日を卜へて、臨發むとすること日有り。

 ○応神天皇 誉田天皇 三年の十一月

  処処の海人、訕牻めきて命に従はず。

  【訕牻】、此を佐麼売玖(さばめく)と云ふ。

  即ち阿曇連の祖大濱宿宿禰を遣して、訕牻を平ぐ、

  因りて海人の宰とす。

  故、俗人の諺に曰く、

  「佐麼阿摩(さばあま)」といふは、其れの縁なり。

 ※阿曇「安曇」アズミ eś-ma[家(屋)―船]屋船

  綿津見「少童、海童など」ワタツミ

  ワタ(Sk.)pā-thas 水 ud 水

    (Grk.)

     βνθιοs「buthiosブトス」海の、水中の

     βνθοs「buthosブトス」(海の)深み、(一般に)深み、表

    (Eng.) bottom 底 ○渤海の「ボッ」

  ツミ(Sk.)         

     dhā-man、dhā-ma超人的存在、dhaman住居、(神々の)領土

     dyu・dha-man/dyu・dha-ma天上の住者・神 

     dumu(阿曇語・シュメル語)子供

  ワタ・ツミ

   「海の住者」海神:海の深みいる神>海童:海の深みにいる子供

  豊玉トヨタマ
 
  (Sk.) toya-dhāma/toya・dhaman 海の住者、海神、toya 海、海の

   志賀海シカウミ/シカミ(阿曇語) zikum 天空

   【□の中に米】=engur深海、水深>深海、深淵

  阿曇磯良

  イソラ

   「イソ」esi(阿曇語)閃緑岩
   
   「志賀島はこの岩石により形成されている」(日本語)”いし”

  「ラ」la (阿曇語)鱗うろこ、魚鱗

   「古事記神代”海神の宮訪問”魚鱗の如造れる宮室」龍宮

   イソラ「石―鱗」鱗の石

  「対馬の和多都美神社の渚にある磐石」この磐石を「エビス」という。

  エベス(阿曇語) as-su 海、地下水

  草:クサ(阿曇語) kusa 両棲類

2014年4月23日水曜日

そのまま卑弥呼女王像でもある「金色」の女神像


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:37頁

 このアテナの像は異様な冠をかぶっているが、

 中央は女性の頭部、向かって左は馬、右は羊のように見える。

 この発想は十一面観音や馬頭観音に結びつく。

 これまではなぜ?、

 仏が頭の上にコブのような小さな頭を乗せているのか、

 またなぜ?、

 馬の頭の観音がいるのか?、

 いろいろな説明を聞いても納得できなかったが、

 この像を見ればそれはこのアテナ像が発想の源だったとわかる。

 それは当然のことで仏像がギリシャの神象をモデルにして

 ギリシャ人によって作られ始めたことは周知の事実だからだ。

 卑弥呼はその金髪の見事さで両親を驚かせ、

 天照(ゼウス)大神に仕えるピュティア(稗田阿礼)として天に送られた。

 そこで彼女はアマゾン=女性国の指揮者になったとしたら、

 知と技と学と戦さの女神・アテナの地位にあり、

 光華明彩、天孫(アマゾン)族の始祖、天照大女(み)神、機織り、

 スサノオとの対決の武装、剣、弓、曲玉、八爬(ヤアタ)の鏡が、

 このアテナ像に全て揃っているのを見る。

 右手にしているのが剣、左手に持つのが弓である。

 このアテナ像は「金色(こんじき)」に塗られていた。

 卑弥呼の金髪がなぜ、

 両親に愛児を手放(てばな)させるはどの威力をもっていたか、

 それはアテネ人の黄金崇拝に根差している。

 それはソナカ宣布団にも受け継がれていた。

 彼らは東方の金地(スパルナ・ブーミー)国を求めた。

 だからこそミャンマー、タイから奈良まで、

 大仏は皆「金色」なのである。

 《そのまま卑弥呼女王像でもある「金色」の女神像
 「そのまま卑弥呼女王像でもある「金色」の女神像

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年4月22日火曜日

観世音像のルーツはアテナ像


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:36頁

 卑弥呼が観世音菩薩だということは、

 詳しく関連部分でお話しした。

 しかしそれをうまくお話しになるのは

 難しいとお考えの方もあると思ったので、

 一見してご納得のいく写真を、

 中級講座御卒業の付録として、

 お役に立てて戴き、

 記念にご保存戴くことにした。

 この写真は、

 ギリシャ・アテネのアクロポリスにある

 神殿・パルテノンにあったアテナ像である。

 90年近く前の写真で不鮮明だが、

 今はもう手に入らないので貴重なものである。
 
 Αηθνα アテナは知性、技術、戦いを司る

 処女神でアテネ市の守護神だった。

 アテネ市はB.C.E.5世紀の対ペルシャ戦争に大勝利後、

 デロス同盟を結んでギリシャ最強の大国、政治経済の中心になり、

 クレイステネスの改革で民主政治を確立した全世界の先進国だったが、

 ペロポンネソス戦争に敗れて衰退した工業港湾都市国家で、

 今も製鉄、せんい、化学、食品工業の中心都市である。

 この像と観音像の共通性の多さと、卑弥呼らの史実と、

 『記・紀』の天照大神の記事を考えると、

 鉄器・せんい・化学の先進文化と民主主義といった先進文明が色濃く見られ、

 また沖縄本島の嘉手納も、

 韓・漢と同じく語頭のk音がなくなればアテナへの当て字であることも、

 すでに他のギリシャ神名などと共に検討済みで、

 卑弥呼らの血統には、

 このナテネ人の血と知性と技術と思想と信仰が、

 重なりあっていることがわかる。

 《観世音像のルーツはアテナ像
 「観世音像のルーツはアテナ像

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年4月21日月曜日

Gods of Many Mythologies


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:34~35頁

 Main characteristic                  Babylonian
 or arrribute            Japanese     -Assyrian       Greek          Roman

 Ruler of the gods              Izanagi         Enlil           Zeus           Jupiter
 God of the seas                O-Wata-Isu-Mi   Enki            Poseidon       Neptune
 Rules the landof the dead      Emma-O          Tiamat*         Hades          Pluto
 Queen of the gods              Izanami         Belit           Hera           Juno
 Goddess of the hearth                                          Hestia         Vesta
 Goddess of harvests                                            Demeter        Ceres
 Goddess of wisdom                                              Athena         Minerva
 God of the sun                 Amaterasu*      Shamash         Apollo         Apollo
 Goddess of the moon            Tsukiyomi**     Sin             Artemis        Diana   Goddess of love and beauty                     Ishtar          Aphrodite      Venus
 God of war                                     Asshur          Ares           Mars
 God of fire and metals         Susano-O-No                     Hephaestus     Vulcan
 Goddess of youth                                               Hebe           Juventas
 God of speed;
  messenger of the gods         Idaten          Ea              Hermes         Mercury
 God of strength                                                Heracles       Hercules
 God of wine                                                    Dionysius      Bacchus   Queen of the dead                                              Persephone     Proserpine
 God of love                                                    Eros           Cupid
 God of the doorway                                             Janus
 Twin deities                                                   Castor&Pollux
 Goddess of the dawn                                            Aurora 
 God of time                                                    Kronos         Saturn
 God of the fieldsand flocks                                    Pan
 Main characteristic
 or arrribute                  Hindu          Egyptian         Scandinavian
 Ruler of the gods              Indra          Amon-Ra          Odin      
 God of the seas              Varuna                          
 Rules the landof the dead      Yama           Typhon          
 Queen of the gods              Durga-                          Frigga          
 Goddess of the hearth                         Isis
 Goddess of harvests
 Goddess of wisdom              Saravati-
 God of the sun                 Surya          Ra
 Goddess of the moon            Chandra        Chomose
 Goddess of love and beauty     Lakshmi        Hathor           Freya 
 God of war                     Karttikeya     Horus            Tiu    
 God of fire and metals         Visvakarma                      Thor
 Goddess of youth
 God of speed;
  messenger of the gods         Hanuman***     Thoth            Loki
 God of strength
 God of wine                    Balara-ma
 Queen of the dead
 God of love                    Ka-ma
 God of the doorway             Gane'sa
 Twin deities                   The Asvins
 Goddess of the dawn            Ushas
 God of time
 God of the fieldsand flocks

     *Goodess instead of a god.
   **God instad of a goddess.
   ***Fulfilles this position although he is a monkey, not human.

 《Gods of Many Mythologies
 「Gods of Many Mythologies

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年4月20日日曜日

欧米の神話比較の現状を語るリスト


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:33頁

 このリストは欧米の人たちが、

 『日本神話』は西欧の神話の仲間だ、

 と知っていることをよく現わしている。

 しかし同時に、

 欧米の学界の日本神話についての教養が、

 どの程度かもよく現わしている。

 私たちはそれよりはるかに多く正確に、

 ルーツとルートを知っている。

 これからそれを世界のベストセラーにしなければならないし、

 それは必ずなる。

 世界の人々が最も知りたいことの一つが、

 いまだに謎の人種「日本人」の「正体」だからである。

 《欧米の神話比較の現状を語るリスト
 「欧米の神話比較の現状を語るリスト

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年4月19日土曜日

真の史実は明るい。私たちは多くの人々を救える


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:32頁

 それを、無知とはいえ、

 非人道侵略と受けとられる神武東征を「絶対に正しい」と主張し、

 日本とは「大和地方侵略で始まった好戦民族国家だ」と

 世界に宣伝し掛ナる大和説・畿内説の連中をどうすればいいのか、

 よくおわかりのはずである。

 私たちの祖先はウッタラ以前にもすでにギリシャ文明の知識をもち、

 3000年以前に中国こ殷帝国を築いたグループをもち、

 それに貝貨を供給した世界貨幣経済の担い手を組織し、

 さらに1万2000年前に世界に先駆けて

 隆起文土器や爪形文土器を発明使用した文明人をもっていた。

 ところが我が国の歴史教育の現状は、

 4世紀の応神天皇から前の天皇たちでさえ

 左翼唯物史観の犠牲にされて抹殺されたままであり、

 それに抵抗する右翼史観もまた

 1200年前の天武『記・紀』と、

 その焼き直し1339年の

 『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』

 北畠親房(ちかふさ)から進歩していない。

 欧米の日本史観もまた次のリスト程度だ。

 言論は自由だが、左右両翼とも、

 せめて本学の成果の上に立ってご討論願いたい。

 敗戦後、半世紀を超えて国民は太平に慣(な)れ、

 目先の幸福追求に忙しく、

 亡き先祖たちは春秋の彼岸(ひがん)と

 盆の休暇の与え手に成り下(さ)がっている。

 そして国際化による経済の怒涛(どとう)が生計を奪い、

 歴代政権が辛苦10年を越えて不況を一層悪化させた現実は、

 私たちは「世界の嫌われ者では死しか無い」と教える。

 しかし真の史実は明るい。

 ご努力をご期待申し上げる。


 《真の史実は明るい。私たちは多くの人々を救える
 「真の史実は明るい。私たちは多くの人々を救える

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年4月18日金曜日

銅鐸は単なる唯物(ゆいぶつ)史料ではなく「文献史料」


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:31頁

 なぜ銅鐸を本講座の総括に使ったか、

 ご理解のことと思うが、

 念のため幾つかお話しして終りを締めくくろう。

 在来の史学では銅鐸は発掘考古学の領域に属する唯物史料だと考えて、

 考古学者たちが発表する時代設定などを鵜呑(ウの)みにしながら、

 『記・紀』の外(そと)に置いてきた。

 だがそれが史学最大の手抜かりだった。

 なぜならそれは『記・紀』の神武紀元からかなりの世代の天皇治世と

 重なる時代の遺物だからである。

 それが列島の中央を占めた一大勢力の遺品であることは明白なのに、

 誰一人それと天皇家との関係を特定せず放置してきた。

 大和説や畿内説でさえ、

 卑弥呼政権実在の証拠にできず、放置してきたのである。

 だがこの講座ではそれがサカ~サタとの関連で明瞭に見えてきた。

 それはさらに手焙(てあぶ)り形土器が

 同一時代の近隣地域から出土することで、

 インド金属文化の実在が確認できたことから、

 そのインド名からウッタラとの結びつきが明確になったので、

 既知(きち)の文献史料や言語史料と結びつき、

 関連史実が全て読める「文献史料」になったのである。

 それによって、

 少し曲解されれば侵略と受けとられる神武東征とは比較にならぬ、

 当時の世界では人頼最高の人道哲学だった仏教による政権が、

 すでに列島の中原を治めていた史実を今、

 世界の人たちに知らせることができるまでになった。

 本当にご同慶にたえない。

 《銅鐸は単なる唯物(ゆいぶつ)史料ではなく「文献史料」
 「銅鐸は単なる唯物(ゆいぶつ)史料ではなく「文献史料」

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年4月17日木曜日

簡潔の極致「漢文」の凄い内容を読み取ること


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:30頁

 漢字について考えたついでに、

 「漢文」についても考えをまとめておく必要があると思う。

 漢字は、欧文だと10文字もある内容を1字で表現できる。

 今でいえば「紙面」の節約という点では世界最高の文字である。

 この漢字と同じく「漢文」もまた同じ節約の精神で貫かれている。

 それは『詩』の精神と機能と同じである。

 「最も短い文章で、最も正確に、

  最も大量の情報と意思を、最も詳しく正確に伝える」のが

 理想なのである。

 だから読むほうも、書き手と同じ教養が要(い)る。
 
 またどんなに小さなことも見逃さない知力と、

 微(かす)かな示唆(しさ)も理解する能力が要る。

 だから、うっかり読んでいたのでは何にもならない。

 例えば「倭人 在 帯万 東南 大海中」の「帯方」の2字は、

 それまで独立国群だった三韓が消滅して、魏の支配下に入っていると、

 はっきり表現しているといったことである。

 それはさらに、よく考えると、

 実はそれ以上のことを表現しているのである。

 「帯方」は「魏の領土の一都で、

 朝鮮半島南半の元(もと)・辰韓・馬韓・弁韓を含む、

 新しい郡=魏の帯方郡」であり、

 さらには前漢の帯方郡以来の歴史も入っている。

 決して「僅か2字」ではない。

 もちろん名詞は欧米語でも同じで、

 その背後に大きな歴史が治まっているが、

 漢文の場合は同じような含蓄(がんちく)が、

 一字一字に詰まっている。

 学究はそれに清通している必要がある。

 《簡潔の極致「漢文」の凄い内容を読み取ること
 「簡潔の極致「漢文」の凄い内容を読み取ること

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年4月16日水曜日

魏の役人が「壹(いち)と臺(だい)」の文字を間違えるか?


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:29頁

 邪馬壹(イチ)国は、

 邪馬臺(ダイ)国を書き違えた可能性など、

 考える必要もない。

 だがそれでも念を入れて視点を変えてみよう。

 文字の国の中国人、

 それも見事な報告書を書いた知性人の張政や、

 文書専門家の役人が「壹と臺」を間違うか?。

 と考える必要が残っていたからだ。

 魏では郡の報告書は、

 太守から本国の秘書監・左民尚書(さみんしょうしょ)・

 尚書僕射(ぼくや)・尚書令・

 御史中丞(ぎょしちゅうじょう)・太傅(たいふ)と

 経由して皇帝に届いた。

 それらの役所では印刷やコピー機のある現代とちがい、

 次々に筆写しなければならない。

 そこで間違いを防ぐために、

 常に一定の文字で綺麗に聖書して、

 丁寧に読み合わせをし、

 質問に答えて、

 間違いを防ぐ制度が漢代から出来上がっていた。

 また当時は木簡・竹簡で、文字は

 今の活字と違い大きいから見(み)間違えることは絶対にない。
 
 ことに、壹の冠(かん)(上部)は

 「士(サムライ)」だが、臺の冠は「吉(キチ)」。

 脚(きゃく)(下部)も「豆」と「至」で、画数が全く逢う。

 よほどのウッカリ者でも、

 専門職がこれを間違えることは絶対にない。

 ましてやこの場合の筆写者は、

 魏の皇帝にまで読まれる字を書く粒選(よ)りの官僚学者である。

 さらに彼らは金印紫綬(しじゅ)を授けたほど

 外交上重要な相手国の名は、

 よく聴いて熟知していた。

 その一字が「イェッ」か「ダグ」か、よく知っていて、

 間違えて書くことなど絶対にないし、

 筆写の都度(つど)、

 常に読み合わせが行なわれて、

 間違いがあれば必ず訂正されたのである。

 《魏の役人が「壹(いち)と臺(だい)」の文字を間違えるか?
 「魏の役人が「壹(いち)と臺(だい)」の文字を間違えるか?

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》