2013年7月12日金曜日

位宮政変の動機と経過


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録25:22頁

 これは我が国の後世の荘園制度をみると、

 ほとんどの皇族が生涯領地へ行ったことはない。

 それと同じことが高句麗王朝でも

 3世紀より前から行なわれていたことがわかる。

 琉球王と名乗っていても、

 実際に琉球へ行ったのは初めてだったのが真相なのだ。

 しかし彼にはそこでいっまでも楽しんでいる余裕はなかった。

 ハッと気がっいてみるともう3年が過ぎていた。

 これが正始5年(244年)から3年後の

 正始8年(247年)のことなのである。

 のんびりしてはいられない。

 魏は倭を取ろうと爪を研いでいる。

 彼はまず周辺の島々の王たちに、武装して倭を守ろうと檄を飛ばし、

 大軍を編成して高句麗を奪還する戦争を目論(もくろ)んだ。

 それを知った卑弥呼は激怒した。

 彼女は平和主義で国を守るために、

 心魂を傾けて魏との友好関係を作り上げ、

 「親魏倭王」の地位を得て、

 魏が倭を攻める大義名分をなくしたのである。

 それを位宮が今、台無しにしてしまおうとしているのだ。

 それこそ倭が滅亡する暴挙だと、

 彼女は直ちに男弟・崇神天皇に命じて、

 位宮軍の先鋒である

 武埴安彦(狗右制(クウジャン)卑狗=川内兄(コウチアン)彦)を

 迎え討たせると同時に、

 載斯烏越(タイシオジゥオッ)=太子・淤斯呂(オシロ)和気・大足彦忍代別
 
 (の鹿児島語訛り)=後の景行天皇を

 帯方郡まで派遣して「相攻撃の状を説明」させたので、

 張政が派遣されてきて、

 卑弥呼の死と邪馬壹国誕生、

 大冢造営に至る詳細な記録を残したのである。

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