2014年7月10日木曜日

阿曇・安曇(73)日向郷・江田


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(73)日向郷・江田

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 出典:平凡社:歴史地名大系
       :80・399・400頁

 江田郷

 「和名抄」所載の郷。

 同書名博本には「江口」と記されるが、

 高山寺本をはじめ他の諸本は「江田」とする。

 いずれも訓を欠く。

 「太宰管内志」は「延陀」と読み、

  名義に関して水辺に由来するかとする。

 「続日本後紀」承和四年(837)八月一日条や

 「延喜式」神名帳に宮崎郡所在の江田神・江田神社がみえるので、

 同社が当郷に所在したことは間違いない。

 江田神社は現在宮崎市阿波岐原に所在し、

 かつて同社境内に一〇世紀前後の須恵器などが

 散布していたということから、

 おそらくその位置は現在まで遷移していないと思われ、

 当郷も現在の江田神社を含む一帯であったと考えられる。

 「日本地理志料」は当郷域を

 江田・浮城・江平・新別府・大島・花カ島(現宮崎市)に比定する。

 当郷に宮崎郡家が所在した可能性が高い(→宮崎郡)。

 江田神社の西北約二キ口には蓮ヶ池横穴墓群があり、

 また南には古墳群が連なる。

 建久図田帳では江田社三○丁は那珂郡となっており、

 郡境が南に移動している。

 江田村(えだむら)(現)宮崎市阿波岐原町

 山崎村の南にあり、東は日向灘に面する。

 「和名抄」に記載される宮崎郡江田郷の遺称地。

 永正一四年(1517)六月六日の荒武名給恩分注文(荒武文書)に

 江田公文分三町三段小三○歩とみえる。

 弘治二年(1556)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によると、

 妻万宮(現西都市都都萬神社)

 領代官格護分として江田の内に四反があった。

 天正一一年(1853)六月三日、宮崎城主上井覚兼は

 当地で出される網船を見物するため新別府へ赴き、

 翌日圧田・新別府の漁船がことごとく出漁し

 渚に魚を引寄せるのを浜辺で見物している。

 同一二年六月一日には覚兼は当地に逗留している

 大円坊から鹿皮を餞別として贈られている(以上「上井覚兼日記」)。

 天正年間に通用した日向国五郡分帳に那珂郡江田三○町、

 天正一六年八月四日の日向国知行方目録には……

 万治四年(1661)の延岡藩村高内検高覚でも宮崎郡で、

 内検高六二〇石。

 寛文四年(1664)の延岡藩領知目録(寛文朱印留)では那珂郡に所属。

 初め延岡藩領であったが、元禄五年(1692)幕府領になる

 (同年「延岡藩領郷村高帳写」三浦家文書、

 「日向国御料発端其外旧記」など)。

 元禄国絵図では高八○四石余。

 天保九年(1838)の臼杵郡七ケ村明細帳(旧文書)では

 高八一○石余、

 うち一三石余が諸引で、残一局七九六石余、

 うち田方七○六石余・畑方八九石余。

 文化七年(1810)四月二一日、

 伊能忠敬は当村の海岸付近を測量している(伊能忠敬測量日記)。
 
 幕末には海岸防備を命ぜられ、

 慶応三年(1867)飫肥藩の預地となった(「阿万豊蔵日ぎ阿万文書)。

 「日向地誌」によれば

 戸数一四○・人数五九一、牛一二馬一一○ 、

 漁船一一・農船七六、池二。

 江田神社・住吉神社、曹迫ボ龍泉寺がある。

 同寺は江戸時代飫肥長持寺(現日南市)の末寺で、

 明治四年(1871)にいったん廃寺となったが、のち復寺した。

 江田神社(えだじんじや)(現)宮崎市阿波岐原町

 阿波岐原町の北端付近、大淀川河口北部の第二砂丘の基部にあり、

 一ッ葉海岸に面する。

 祭神は伊邪那岐尊・伊邪那美尊。

 旧県社。産母大明神・産母様とも称される。

 「続日本後紀」承和四年(837)

 八月一日条に「宮埼郡江田神」と記され、

 このとき児湯郡の都濃神・妻神、

 諸県郡の霧島岑神とともに官社に列せられた。

 天安二年(858)には清和天皇の即位を契機とするとみられる

 日向国内五神に対する神階昇叙が行われており、

 このとき江田神は従五位上から従四位下に昇叙されている

 (「三代実録)同年一○月二二日条)。

 「延喜式」神名帳に宮崎郡一座小としてみえる

 江田神社は当社に比定される。

 社名と郷名の一致から、

 「和名抄」にみえる

 宮崎郡江田郷に所在したと考えられる。

 かつて同社の境内には一○世紀前後の須恵器などが散布しており、

 当初の位置に現在も鎮座していると考えられる。

 鎮座地の阿波岐原は「古事記」禊祓の段にみえる地名で、

 イザナギは械国から帰り、

 「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」で禊祓をし諸神が生れたという。

 「日本書紀」神代の禊祓の段の一書第六では

  イザナミに追われたイザナギは泉津平坂に至り、

 「筑紫日向小戸橘之檍原」で禊祓をしたとされる。

 当社由緒によると、イザナギが檍原で

 「上つ瀬は瀬疾し、下つ瀬は瀬弱し」といって禊祓をした中つ瀬は

 当社東の海中のことで、その旧跡には古くから漁師が参拝に来たという。

 「日本書紀通釈」に

 「江田郷あたりを古檍原と云ひしと見ゆ」と記されている。

 建久図田帳に江田社三○丁と記され、

 日向一宮妻万宮(現西都市都萬神社)領に含まれた。

 また那珂郡に所在し、弁済使は宗遠。

 同帳の応永二八年(1421)二月二七日の追記にも江田社三○丁とあり、

 天正年間(1573―92)に通用した日向国五郡分帳でも江田は三○町で、

 中世は那珂郡に属した。

 清滝宮勧請神名帳(続群書類従)には京都醍醐寺の鎮守清滝宮が

 勧請した諸神のなかに江田明神がみえ、

 文明一一年(1479)正月日の戒壇院

 公用神名帳(同書)にも江田大明神とある。

 天正一二年三月八日、

 上井覚兼は江田大宮司の所で蹴鞠をし、当社に泊まっている。

 同一三年七月七日には江田大宮司が網を引き、

 覚兼に魚のもてなしをしている(上井覚兼日記)。

 中世には日向国を代表する有力神社の一つであったようだが、

 江戸時代になるとしだいに衰え、

 寛文二年(1662)の大地震・津波で被災したとみられ、

 その後は一村落の産土神と同様になったという(宮崎県史蹟調査)。

 元禄一一年(1698)の寺社境内領除地覚写(奈古神社文書)では

 産母大明神は高三石が除地とされている。

 延宝三年(1675)九月一六日、

 橘三喜は当社を参詣している(一宮巡詣記)。

 境内には伊弊諾尊の禊場がある。

 六月には夏越祭が行われる。

 前夜には渚で浜禊して拝殿に参拝する習わしがあった。

 当日は御霊移しが行なわれ、一の鳥居横の磐境には渡御した後、

 神事を営み茅の輪くぐりが行われる。

 神職・氏子・参拝者の順に三回くぐり穢を祓う。

 終日楽を奏し、神輿は夕刻に還御となる。


 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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